第20回 保元・平治の乱

○平氏の台頭

 平清盛があまりにも有名な平氏ですが、これから歴史の表舞台に登場するのは伊勢平氏。
 平将門の乱で将門と激しいバトルを繰り広げた、平貞盛の子のうち、平維衡を始祖とするグループで、伊勢(今の三重県)に移り住んだのが特徴です。そのほかの平氏は、多くは関東で土着しています。

 華々しく活躍した源頼義や義家などに比べ、平氏は長らくどうも影が薄い。ところが、白河上皇は平維衡の”ひ孫”である平正盛(?〜1121年?)を気に入り、北面の武士として採用。「こいつを、我が親衛隊として取り立ててやろう」と考え、何か手柄を立てさせるいい材料はないかな・・・と思ったら、大嫌いな源義家の息子、源義親(?〜1108年)が出雲で反乱を起こしたというじゃないですか。

 「よっしゃ、奴を討ち取って来い!」
 というわけで、正盛は義親を討伐し、もちろん出世。白河上皇としては、摂関家と仲が良い源氏よりも、自分の手駒して動いてくれる武士が欲しかった、というのがあります。そこで目を付けられたのが、平正盛だったのです。ちなみに、本当に義親は討ち取られたの?と疑問の声は当時から多く、その後も源義親を名乗る人物が出現し、活動しています。

 ともあれ、衰退する源氏と比べ、平氏はさらに栄華を迎えます。正盛の子、平忠盛(1096〜1153年)は瀬戸内で暴れ回る海賊を征討し、鳥羽上皇の信任を獲得。また、海に注目した忠盛は、中国の宋と貿易を開始し、平家の経済的基盤の強化に役立ちます。そして、忠盛の子、平清盛(1118〜81年)が当主となり、源氏は義親の子、源為義が当主となり活躍を始めたころ、天皇家、摂関家、源氏、平氏を巻き込んだ大乱が発生します。

○第一ラウンド! 保元の乱

 保元の乱の最大の要因は、天皇家のお家騒動があります。
 まず皇位の推移ですが、
 ・鳥羽天皇(位1107〜23年)
 ・崇徳天皇(すとく 位1123〜41年
 ・近衛天皇(このえ 位1141〜1155年
 ・後白河天皇(ごしらかわ 位1155〜58年)と引き継がれていきます。

 このうち、崇徳、近衛、後白河は鳥羽上皇(法王)の息子ですが、崇徳に関しては白河上皇の子ではないか?というウワサが。そんなこともあり、鳥羽は崇徳が大嫌いでした。白河上皇が亡くなると、さっそく崇徳天皇を譲位させ、近衛天皇がなんと3歳で即位します。

 ところが、近衛天皇は17歳で崩御。
 そこで代わりに即位したのが、後白河天皇でした。今度は再び俺の番か、せめて俺の息子が天皇になって院政・・・と思っていた崇徳上皇だったにも関わらず、鳥羽上皇は
「お前の息子には天皇位をやらないよ。お前の弟、後白河天皇の子孫へ皇位は継承していくよん」
 と方針を打ち出しました。
「な、なんじゃと! これでは俺は永久に院政は出来ぬし、我が子は天皇になれぬでおじゃるか!」
 
 その結果、鳥羽上皇が亡くなると、崇徳VS後白河が勃発することになります。

 一方、衰退したとはいえ摂関家の当主の座も争奪戦が開始されます。
 すなわち、藤原忠通(関白)と、その弟の藤原頼長(左大臣)がバトル! 親父の藤原忠実が、温厚な忠通よりも、性格は悪いが超秀才のエリートである頼長を溺愛し、自分の後継者としようとしたことに端を発します。

 そこで・・・崇徳上皇=藤原頼長 VS 後白河天皇=藤原忠通
 という公図が成立。両陣営とも、有力な武士を味方に付けるべく奔走します。その結果、以下のようになりました。

崇徳上皇(兄) 天皇家 後白河上皇(弟)
藤原頼長(弟) 藤原家 藤原忠通(兄)
平忠正(叔父) 平氏 平清盛(甥)
源為義(父)・為朝(弟) 源氏 源義朝(子/兄)

 これに、後白河天皇方には藤原通憲(信西)という、頼長と並んで評判の学者が参謀としてついています。
 結果は、先制攻撃を仕掛けた後白河天皇方の大勝利。崇徳上皇は讃岐に配流され、藤原頼長は流れ矢に当たって戦死。平忠正、源為義は斬首。源為朝は伊豆大島へ流刑となりました。しかし、これで話は終わりではありませんでした。

○第二ラウンド! 平治の乱

 今度は、勝者の中で対立が発生します。すなわち、後白河上皇(1158年に二条天皇へ譲位)の近臣の座を巡って、藤原通憲(信西)VS藤原信頼が激突! これに平清盛と源義朝の対立が加わり、こちらも激突!

 と、いいますのも。
 保元の乱の後、藤原通憲(信西)が論功行賞を取り仕切ったのですが、源義朝が左馬頭(さまのかみ)への任官に留まったのに対し、清盛が播磨守・大宰大弐(だざいのだいに)と差が付いたのが、義朝としては面白くない。さらに、藤原信頼は「近衛大将になりた〜い!」と、(ある意味で無謀にも)要求したところ、藤原通憲(信西)に「あんたはダメ!」と断られる。というわけで、「ボクは後白河上皇のお気に入りだぞ。あいつら、ぶっ殺す!」となったわけですな。

 そこで1159年末、手を組んだ義朝と信頼は、清盛が熊野詣で京都を留守にしたのをチャンス!として挙兵。まずは「天皇を確保すれば、俺たちは官軍。味方も増えるに違いない」として後白河上皇と二条天皇を幽閉。さらに、藤原通憲(信西)を逮捕し、「今までの恨み、思い知れ〜!」と斬首しました。

 これで安心したのか、もう藤原信頼は勝者気分。まだ清盛が残っているというのに、そんなことは眼中に入らなかったようです。源義朝も「ダメだこりゃ」とガックリ来たか、それとも同じく戦勝に浮かれたか。いずれにせよ、清盛は直ぐに平安京に戻り、後白河上皇と二条天皇を奪い返します。

 これによって、藤原信頼・源義朝連合の旗色が悪くなります。しかも、源氏でも源頼政らは清盛へ寝返り。
 そして戦いの末、彼らは清盛に敗北し藤原信頼は斬首。源義朝は東国へ逃れようとしますが、尾張国で長田忠致に誘い出されて殺されてしまいました。こうして、平氏一族の天下がやってくるのです。

 とは言え、清盛もちょっと甘い。
 義母の池禅尼に「亡くなった息子に似ている。殺さないで欲しい」と懇願されたとはいえ、折角捕まえた源義朝の嫡男、源頼朝を助命し、伊豆へ流刑に。さらに、のちに源義経と名乗る牛若丸などの義朝の子供達も、その母親である常磐(ときわ)が美人で惚れてしまったということで助命し、寺に入れました。これが後々、平氏にとって命取りになろうとは・・・。

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