第27回 政権を天皇の手に!鎌倉幕府の滅亡
○今回の年表
1246年 | 後深草天皇が即位する。 |
1247年 | 宝治合戦。三浦泰村らが挙兵し、北条時頼に戦いを挑むが敗北し、滅亡する。 |
1259年 | 宗尊親王が鎌倉幕府第6代将軍に就任(皇族将軍のはじめ)。 |
1259年 | 亀山天皇が即位する。 |
1260年 | モンゴル帝国で、フビライ=ハンが即位する。 |
1274年 | 文永の役が起こる。 |
1279年 | 南宋がモンゴル帝国(元)に滅ぼされる。 |
1281年 | 弘安の役が起こる。 |
1309年 | (フランス・イタリア)ローマ教皇のバビロン捕囚(〜77年) |
1317年 | 文保の和談が成立し、後醍醐天皇が即位。 |
1324年 | 正中の変。後醍醐天皇による幕府転覆計画が発覚。 |
1331年 | 元弘の変。後醍醐天皇による幕府転覆計画が再発覚し、さらに挙兵。天皇は隠岐に流される。 |
1333年 | 後醍醐天皇は隠岐から脱出し、新田義貞などの軍勢が鎌倉幕府を滅亡させる。 |
○2つに分裂した天皇家
お話は蒙古襲来の少し前に戻ります。色々な人物が出てきますが、要は後深草天皇と、亀山天皇の兄弟が、それぞれが自分の子孫に皇位と、皇室の荘園を継承させようとしてバトルを繰り広げ、結局は鎌倉幕府によって「お互いの子孫から、順番に天皇を出せばいいじゃないの」させられたお話です。では、詳しく見ていきましょう。
後嵯峨天皇(1220〜72年/位1242〜46年)は、在位4年で久仁親王(後深草天皇)に位を譲り、院政を行っていましたが、後深草天皇の弟である恒仁親王(1249〜1305年)が可愛くてたまらない。そこでなんと
「おい、お前はさっさと天皇を辞めろ!」
と、後深草天皇に圧力をかけて皇位を譲らせ、恒仁親王が即位します(亀山天皇位 1259〜74年)。
「親父が生きている間は仕方がない・・・」
と、じっと我慢する後深草上皇。そして、後嵯峨法皇が亡くなったあと、この兄弟はこんな行動に出ます。
・後深草上皇
息子の熙仁(ひろひと)親王を皇太子として認めるよう要求
VS
・亀山天皇
自分の子孫に皇位を継承することを明確にするため、息子の世仁(よひと)親王に皇位を譲り、後宇多天皇が即位。亀山上皇はもちろん、院政を行います。
結局、両陣営から「うちこそ正統だ」との主張を受けることになった鎌倉幕府は、
「ならば、お互いの子孫から順番に天皇を即位させるべし」
と決定。すなわち、両統迭立(りょうとうていりつ)といわれる、持明院統(後深草系)と大覚寺統(亀山系)の双方から天皇を出しあうことが決定されました。その結果、大覚寺統の後宇多天皇の次は、持明院統の熙仁親王が伏見天皇として即位しました。
○後醍醐天皇の登場
ところが、それでも両者の不満は納まらず、鎌倉幕府は調停を進めた結果、1317(文保元)年に文保の和約が成立。これに伴い、持明院統の花園天皇に代わり、大覚寺統から後醍醐天皇(1288〜1339年)が即位します。ところが、その天皇こそが鎌倉幕府打倒に向けて動き出しちゃいます。幕府としてはせっかく仲裁してあげたのに・・・といったところ。のちに持明院統から光厳天皇を即位させ、これが北朝につながっていくのですが、それはまた次回の話。
さて、この後醍醐天皇、本来は天皇の名前は死後に決められるものを、「私は醍醐天皇や村上天皇の頃の、天皇自らが政治をする時代に戻したい」と熱望し、自分で「後醍醐天皇」を名乗るという、じつに異色の天皇。尊敬する醍醐天皇の後継者を自称したわけですね。
後醍醐天皇は前ページで紹介したとおり、大義名分論に基づいて「幕府は、私の指揮下にあるべきだ。従わないなら滅ぼすまで!!」と、血気盛んで、吉田定房、北畠親房(きたばたけ ちかふさ 1293〜1354年)、日野資朝(すけとも)などの人材を確保。後醍醐天皇は院政を行わず自ら政治を行い、鎌倉幕府の転覆を計画します。
第1回目が1324(正中元)年で、日野資朝、蔵人頭の日野俊基などと挙兵の日程まで決めていましたが、何者かが幕府に密告。六波羅探題の軍勢によって後醍醐天皇に味方する武士は処刑され、日野資朝は佐渡へ流罪となり、のちに斬首。後醍醐天皇は「まろは何も知らぬでおじゃる」と貫き通し、このときは無罪放免となりました。これを、正中の変といいます。
こんなもんでは諦めませんぞよ。
第2回目が1331(元弘元)年で、やはり挙兵前に計画が発覚。日野俊基らが逮捕され、またまた後醍醐天皇は「知らぬ、存ぜぬ」を貫き、幕府からの追及を逃れます。
しかし、今度ばかりは意地でも幕府を倒すつもりでした。突如として笠置山(かさぎやま 京都府笠置町)に立てこもり、幕府軍と戦います。・・・しかし敗北し、さすがに今度ばかりは「知らぬ」とは言えず、山陰の隠岐へ流されました。これを、元弘の変といいます。
しかし、この元弘の変はこれにて終了ではありませんでした。後醍醐天皇の息子である護良(もりよし)親王(1308〜35年)が各地で倒幕するよう、各勢力に令旨を出して賛同者を募り、これが大きなインパクトを世間に与えます。
さらに河内の武士である楠木正成(くすのきまさしげ ?〜1336年=写真)ら、悪党と呼ばれる武装集団が、護良親王らと共に、ゲリラ戦法で幕府軍に打撃を与えていきます。この悪党というのは、武士に限らず漁師や農民、商工業者、馬借など、様々な身分の人々から形成される、反既存権力の集団で、これまでに無いタイプの集団。後醍醐天皇は「彼らの武力は利用できる」と期待していたのです。
・・・決して、悪巧みを考える詐欺集団じゃないですよ、念のため。
○さらば、鎌倉幕府
こうした反転攻勢を見た後醍醐天皇は、なんと隠岐から脱出!!これに呼応して、北条氏に不満を持っていた武士たちが次々と後醍醐天皇側に参加していきます。
特に大きな力となったのが、源氏の足利高氏(1305〜58年)、新田義貞(1301〜38年)の2大勢力です。足利高氏は幕府軍の大将の1人でしたが、篠村八幡宮(京都府亀岡市)にて
「これより我が敵は鎌倉幕府である!」
と挙兵。京都に攻め込み六波羅探題を滅ぼしました。
一方の鎌倉幕府といえば、得宗で執権の北条高時は遊びまくっていました。田楽(でんがく)と呼ばれる農業に由来する演劇や、闘犬、それから酒宴三昧。政治の実権は、北条氏の御内人で内管領の、長崎高綱、高資の親子が握っている有様でした。ちなみに、長崎高綱は平頼綱の甥にあたります。彼らは、平頼綱とは異なり安達氏とも協力しながら幕府政治の強化を図りますが、やはり他の御家人たちは面白くなかったのでしょうね。
1333(元弘2)年、九州では鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題が少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら、もと御家人たちによって滅ぼされます。そして同じ頃、ついに新田義貞が鎌倉攻略に向けて出陣します。
新田義貞銅像(分倍河原駅前)
1333(元弘2)年5月はじめ、新田義貞は上野国新田庄(現、群馬県太田市)から出陣。小手指ヶ原(現、埼玉県所沢市)で北条家の長崎高重の軍勢を破り、5月15日に分倍(現、東京都府中市分梅町)で北条泰家と戦います。
分倍河原古戦場跡
ところが、この戦いでは新田義貞軍は敗北し所沢方面へ退却しますが、その夜のうちに相模の豪族である三浦義勝の協力を得ることに成功。翌日未明に分倍の北条軍を急襲し、これを撃破。
極楽寺切通し
勢いに乗った新田義貞軍は、鎌倉の西にある極楽寺切通しから鎌倉に侵入しようとしますが、これは待ち構えていた北条軍に阻まれます。そこで、さらに南の海岸線沿いの、稲村ガ崎から軍勢を進め、鎌倉へ突入!
東勝寺跡
こうして5月22日に鎌倉は陥落し、北条高時ら北条一族、長崎高綱らは東勝寺にて自害し、ここに鎌倉幕府は滅びました。
最後に、あえて私見を書かせていただきますと、北条氏は正中の変では、後醍醐天皇の陰謀モロバレなのに無罪放免にし、元弘の変に至っては、さらにモロバレなのに、やっぱり無罪放免にし、しかも挙兵されて逮捕しても、隠岐に流すぐらいにとどめたのに、最後は主要な北条一族が全員自害かよ!と(笑)。
ともあれ、これまで見てきたとおり、全国の守護の大部分を北条氏が占めるようになり(幕府滅亡の直前には30カ国も独占)、幕府=北条氏であることに、多くの御家人が不満を持っていましたし、分割相続によって御家人たちの生活が窮乏。新しい変革の波が求められていたわけですね。さて、後醍醐天皇はその期待にこたえられるのでしょうか?
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