第34回 戦国時代総論

○法律(法度)を制定せよ

 
 さて、戦国時代とも称される室町時代末期。
 応仁の乱以後、すっかり将軍の権威は地に落ち、さらに有力な守護大名も部下である守護代や、さらには地元の国人に取って代わられるようになりました。そして、大小さまざまな戦国大名に、さらに小さな勢力が激しいバトルを繰り広げ、一方で自分の領地の開発を進めていきます。

 というわけで、力こそものを言う戦国時代ですが、一族で争ったり、また地元の国人たちが反乱を起こしたりと、とにかく支配者の地位を保つのが難しい。江戸時代のように、お殿様と忠実な家臣たち・・・なんて構図ではなく、むしろ市長と、議員たちみたいな関係です。そこで、家臣団統制や領国支配を、いかに効率的に行える体制を整えられるかが、至上命題でした。

 その1つの方法としては、領国内で通用する基本法である分国法(家法)を制定すること。鎌倉時代の御成敗式目なども参考にしながら、様々な取り決めをあらかじめ作っておこう、ということです。代表例は次の通り。

伊達氏(陸奥)・・・塵芥集(じんかいしゅう)
武田氏(甲斐)・・・甲州法度之次第
今川氏(駿河)・・・今川仮名目録
北条氏(相模)・・・早雲寺殿廿一箇条
結城氏(常陸)・・・結城氏新法度(はっと)
朝倉氏(越前)・・・朝倉孝景条々
六角氏(近江)・・・六角氏式目
大内氏(周防・長門)・・・大内氏掟書
相良氏(肥後)・・・相良氏法度



 特に、甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)のように
「喧嘩をしたものは、どちらに原因があろうが両方とも処罰するぞ!」
 と喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)の規定は、家臣団の中で勝手に争わせず、紛争があれば殿様であるオレが裁判してやる、という意味で、大名の権力確立のためには重要なことでした。それから、私的に婚姻を結ぶことの禁止、土地処分の制限も、勝手に家臣同士で勢力を広げないようにするために重要な規定でした。

 一方、「何もそれを規定にしなくても・・・」というのが、結城政勝が1565(弘治2)年に定めた結城氏新法度。
「朝夕の寄合酒では菜三種、汁一椀、酒は飯椀に10分の1とする。これを過ぎてはならない」
 と、食事制限を制定。よほど結城家では、食生活にだらしなかったのでしょうか。

 また、相良氏法度(さがらしはっと)では
「後家=未亡人を女房にすると言いながら、売り払うようなことをしてはならない」
 と規定。えっ!未亡人が売られていたんですか!

 また、自分が支配する土地から、どれほど米などの収穫があるのかを調べるため、検地(けんち)をしばしば行い、土地面積や税金ならぬ、税米である年貢(年貢)量を検地帳に登録し、領国の実態把握に努めました。さらに、城下町の建設、鉱山の開発、河川の改修や、軍事面では築城などを積極的に行います。

○家臣団の編成

 それから戦国時代で注目すべきは、家臣団のあり方が鎌倉時代などと大きく変わったこと。
 もちろん、全ての戦国大名が対応したわけではありませんが・・・。

 従来は惣領がいて、その下に一族がいて、さらにその下に一族が・・・という仕組みでしたが、これまで見たように親兄弟でも激しく争う時代。戦国大名や、地元の有力者には新しく台頭した勢力もたくさんいます。そこで、配下の有力家臣に在地の武士(地侍)を従わせる寄親・寄子制を採用する例が多くなります。

 例えば、ゲーム「信長の野望」では織田信長の家臣として、羽柴秀吉だろうが、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)(1526〜86年)だろうが、山内一豊(やまうちかつとよ)(1545〜1605年)だろうが、まるで全てが信長直属のように扱われていますが、実はちょっと違う。

 このケースの場合、信長にとって完全に直属である有力家臣、すなわち寄親は羽柴秀吉だけで、秀吉の下に蜂須賀正勝、山内一豊らが寄子(与力)として預けられている、とまあ、こういう構図になります。寄子=家臣の家臣・・・というわけではないのが、またややこしいですけど。

 それから、力のある戦国大名は、自分に従う家臣や国人たちを、自分の居城の周りに住まわせるようになります。

 通常の場合、国人たちは戦国大名に従ったとしても、自分の領地では立派な1人の領主で、普段は自分の領地に住んでいます。ですから戦国大名には、特に忠誠心も減ったくれもありません。誰が自分の領土を守ってくれるか、そして儲けさせてくれるか、それがキーポイントです。

 *全員が全員、そういうわけでもないですけどね。先ほどの蜂須賀正勝のように、秀吉から阿波(徳島県)を領国として与えられても、息子に譲って、自分は秀吉側近として仕えている例もありますし。

 ところが、例えば普段から岐阜に住まわされ、ほぼ毎日お城に出勤して、織田信長の命令を受けているようになればどうでしょう。誰がボスなのか、自然と理解するようになりますし、自分の家族が常に信長の監視下に置かれていることになるため、うかうか領地に戻って兵を集めて反乱・・・は起こせません。



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