第36回 織田信長、天下統一への道
○今回の年表
1560年 | 桶狭間の戦い。織田信長、今川義元を倒す。松平(徳川)家康、今川家から独立。 |
1567年 | 織田信長、斎藤龍興の稲葉山城を陥落させ、岐阜と改名。 |
1568年 | 織田信長、足利義昭を奉じて入京。 |
1570年 | 姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が、浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。 |
1571年 | 織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。 |
1572年 | 三方ヶ原の戦い。武田信玄が徳川家康を破る。 |
1573年 | 織田信長、足利義昭を京都から追放する。 |
1575年 | 長篠の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が、武田勝頼を破る。 |
1576年 | 織田信長、安土城を築城。 |
1582年 | 武田勝頼が織田信長に敗北し、武田家が滅亡する。 |
○一気に勢力を拡大する信長
さて、各地の戦国大名が争う中で、全国統一、すなわち天下統一を目指して戦ったのが織田信長です。
(上写真は信長の居城、清洲城跡にある信長像)
若い頃は「うつけ者」と家中から馬鹿にされていましたが、家督を相続すると一族とも戦いながら尾張を固め、さらに父、織田信秀の代から争っていた今川家とも抗争を繰り広げます。
そこで1560(永禄3)年、今川義元(1519〜60年)は織田家と雌雄を決するべく尾張へ本格的に侵攻。今川軍の兵力は24000から32000程度、対する織田軍は5500〜6500程度と兵力では信長が圧倒的に不利でしたが、今川軍の本隊へ決戦を挑み、見事に撃退しました。これを桶狭間の戦いといい、東海道一の戦国大名で、勝利確実と思われていた今川義元を戦死させたことは、信長の勇名を一気にとどろかせました。
ちなみに桶狭間の戦いは名前こそ有名ですが、その実態については諸説あってよく解っていません。合戦が行われた場所(今川義元が戦死した場所)でさえ、現在の名古屋市緑区有松町桶狭間と、豊明市の2箇所が古戦場として名乗りを上げています(・・・とは言え、両方ともそんなに離れた場所ではありませんけど)。また、よく言われる「今川義元が京都へ上洛を目指したため、信長と戦った」というのも疑問視されており、さらに「信長が奇襲攻撃をかけた」というのも、現在では有力な説ではありません。
名古屋市緑区有松町で戦いが行われたとすると、こんな感じで行われたそうな。
桶狭間古戦場公園
名古屋市緑区有松に設置された公園。1988(昭和63)年に土地区画整理事業に伴い出来たもので、史跡にはなっていませんが「うちが本家だ!」主張。合戦が行われた場所のは豊明市側だけど、今川義元が戦死したのはこっちなのではないか?と考える研究者もいます。
一方、豊明市側の伝承地で戦いが行われたとすると、こんな感じになるそうです。まあ、どちらの説にしても信長軍の進路が大きく変わるわけでもなく、古戦場の場所が東に行くか、西に行くか程度の違いなんですけどね。ただ、正面攻撃をかけたのか、迂回して攻撃をかけたのかなど、攻撃方法には諸説あります。
国指定史跡桶狭間古戦場伝説地(今川義元墓)
豊明市にある古戦場は、古くから合戦の場所として推定されており、国指定の史跡にもなっています。
国指定史跡桶狭間古戦場伝説地
どの説を採用するにせよ、このあたり一帯が合戦場となり、信長は、ある意味で運がよく今川義元を討ち果たせました。信長の運命が大きく変わった瞬間です。
桶狭間の戦いに勝利した信長は、今川家から独立した幼馴染の松平元康(のち徳川家康。三河の戦国大名)と同盟を結び、北や西に向かって勢力拡大を狙います。
1567(永禄10)年には、美濃の斎藤龍興を撃破し、この地を占領。このとき、斎藤氏の本拠地であった稲葉山城を岐阜城と改名します。これは、古代中国の周の文王が岐山(きざん)に立ち、殷王国を滅ぼし天下を統一したこと、それから孔子の生誕地である曲阜(きょくふ)を組みあわせたもの。型破りなイメージのある信長ですが、こうした故事も重んじていたんですね。また、『天下布武』の朱印を使い始め、その意思を内外に知らしめます。
岐阜城跡
安土城を築城するまで、信長の拠点となった岐阜城。江戸時代は南の加納城が岐阜の中心となり、ここは使われていません。
○織田包囲網を打ち破れ
さて、一気に勢力を拡大した信長の下へ、将軍就任を目指す足利義昭が頼ってきます。既に信長は、三河の戦国大名で今川家から独立した徳川家康と同盟を結び、北近江の戦国大名、浅井長政には妹の”お市の方”を嫁がせており、さらに武田信玄に対しては低姿勢で臨んで同盟し、警戒心を解いていました。そこで準備到来、京都を目指して出陣し、南近江の戦国大名、六角義賢を倒して京都を占領。足利義昭を第15代将軍に就任させました。
感激した義昭でしたが、「将軍権力の確立」を目指す義昭に対し、「将軍はお飾り」としたかった信長は対立していきます。そこで義昭は、信長打倒の包囲網を形成すべく、各地へ書状を送り始めます。一方、信長は越前の朝倉義景を倒すべく、徳川家康と共に出陣していたのですが、朝倉氏とも関係が深かった浅井長政が信長を裏切り、挟み撃ち寸前に。信長は家臣の木下秀吉(のち羽柴秀吉)と、盟友の徳川家康の奮闘のおかげで脱出に成功し、なんとか京都に帰還できました。
このときが信長が最も苦しい時期でした。
越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、甲斐・信濃の武田信玄、畿内(近畿)では三好三人衆、比叡山延暦寺、本願寺顕如率いる大坂の石山本願寺、中国地方では毛利輝元、さらに伊勢長島では一向一揆が起こるなど、周りは敵だらけ。
そういう苦しい状況下で、信長は幼馴染だった徳川家康と共に、浅井長政を信頼していただけに、裏切りへの怒りは凄まじく(・・・とは言え、朝倉氏に侵攻する際には、浅井家に一報を、という取り決めが合ったのを、信長が無視したのも悪いのですが)、1570(元亀元)年に姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を打ち破り、3年後に両家を滅ぼしました。
1571(元亀2)年、信長に反抗した比叡山延暦寺を焼き討ちにし、1573(天正元)年には、ついに足利義昭を京都から追い出し、これ以後、信長は朝廷との関係を深めていきます。さらに、1574(天正2)年に伊勢長島の一向一揆、その翌年に越前の一向一揆を平定に成功。
越前平定と同じく1575年、織田信長・徳川家康連合軍は長篠の戦いで、武田信玄の跡を継いでいた武田勝頼の軍勢を撃破し、武田家の勢力を大きく減少させます。さらに、1580(天正8)年に石山本願寺を降伏させ、1582(天正10)年には、長篠の敗北から立ち直れない武田家を滅ぼしました。
復元された鉄砲構え
長篠の戦いの中で、決戦的な戦いだったのが設楽原の戦い。信長・家康連合軍は火縄銃を多数配備し、迫り来る武田軍に対して大規模な銃撃戦を仕掛けました。
復元された鉄砲構え
乾堀、馬防策、銃眼付き身がくしの3段構え。武田軍の有力な武将たちは、ここを突破しかけた土屋昌次を除けば、実際のところ銃撃で戦死はしませんでしたが、退却戦の際に多数が戦死しています。
安土城跡
天下取りに大手をかけた信長が、岐阜に変わる新しい拠点として1579(天正10)年ごろに完成されたのが、安土城。琵琶湖に面した交通の要所で、不等辺七角形上に造られた天主、城内に建立された寺院、石垣の積極的な使用など構造的に極めて独特な形をもっていました。
安土城天主 推定復元模型
駿府城に展示されている模型。その後の天守閣へつながる建造物の1つで、独特な姿をしていたようです。
○織田家臣団
柴田勝家 |
羽柴秀吉 |
明智光秀 |
滝川一益 |
○志半ばで倒れる・・・
こうして中部地方のほぼ全域と、近畿を手中に収め、全国随一の勢力を造った信長。北陸では重臣の柴田勝家VS上杉謙信、中国地方では羽柴秀吉VS毛利輝元、関東地方では滝川一益VS北条氏政とし、さらに四国侵攻も計画するなど、まさに全域で勢力拡大を図っていましたが、毛利氏攻略のために出陣しょうと、京都の本能寺にいたところを、重臣の明智光秀(1528頃〜82年)の奇襲攻撃に遭い、夢半ばで自害しました。これを、本能寺の変といいます。このとき、信長の嫡男である織田信忠(1557〜82年)は妙覚寺にいましたが、信長急襲の知らせを受けて出陣。しかし、軍勢が多くいたわけではなく、二条御所で明智軍と戦い力尽き、自害しました。後継者として信長から教育されていた信忠が亡くなってしまったことは、信長政権にとっては致命的でした。信長の弟である織田長益や、家臣の前田玄以などが京都から脱出しているだけに、なぜ信忠が一時退却を行わなかったのかは疑問です。光秀ほどの人物なら、脱出ルートはふさいでいるだろうと思ったのかもしれませんけどね。
なお、明智光秀は美濃の出身で、明智氏は守護の土岐氏の一族。はじめは朝倉義景に仕えましたが、足利義昭に従うようになり、そして織田信長の重臣となりました。近江坂本城、丹波亀山城が与えられるなど、信長からの信頼も厚い人物でしたが、なぜ本能寺の変を起こしたのかについては、未だによく解っていません。
広く普及しているのは、信長から受けた様々な仕打ちの結果、信長を恨んでいた・・・という怨恨説ですが、ほとんどは憶測によるものや、後世に推定で書かれた資料によるもので、断定は出来ません。またストレスがたまっていたのが原因だとか、朝廷の誰かが首謀者だ、足利義昭が首謀者だ、いや実は羽柴秀吉が首謀者だ、徳川家康が首謀者だなど、光秀を利用した何者かの存在も推測されていますが、いずれも決定打にかけているのが現状です。よっぽどの資料が出てこない限り、永遠の謎でしょうね。
○信長の政策
それでは、信長の政策を見ていきましょう。1.楽市・楽座・・・美濃の加納や、後に本拠地として造りあげた安土などで実施したもので、特権組合であった座を否定し、商人たちが自由に商売できるようにします。これは信長オリジナルの発想ではなく、六角氏なども行っていますが、ここまで商業活動を重視する思想は、この時代では異例のことで、江戸時代でもあまり見られないことでした。こうした政策の結果、織田家の領内が安定し、人々が安心して生活できたことも、信長軍団が強大であったことの理由の1つだと思われます。
2.重要鉱山の支配・・・信長に限ったことではありませんが、やはり各種資源を産出する鉱山をガッチリおさえます。
3.堺の支配・・・自由都市であった堺を信長は支配することに成功。その経済力を自分のものとします。
4.キリスト教等の保護と、敵対宗教の弾圧・・・宣教師のルイス=フロイスと度々会談するなど、キリスト教などを保護する一方で比叡山延暦寺や一向一揆など、刃向かう宗教は徹底的に弾圧。もっとも、こうした徹底弾圧は信長だけがやっていたわけでもないですし、特に宗教勢力の場合、そのぐらい苛烈に弾圧しないと、いつまでも反抗の火種が消えないのも事実であると思われます。
5.能力主義の導入・・・他の戦国大名たちが、「譜代の家柄だから・・・」「有力な国人だから・・・」と能力が無くても仕事をさせるのに対し、信長は農民出身の羽柴秀吉や、長らく浪人していた明智光秀や滝川一益など、家柄や出自にこだわらず有能だと思う人物を登用し、しかも幹部級にまで引き立てます。一方、譜代家老の佐久間信盛のように、「役立たず」と追放されるなど、能力の無い人間はアッサリとクビを切られます。
都の南蛮寺扇面
狩野宗秀(1551〜1601年 狩野元信の弟)が描いたもの。1576(天正4)年にイエズス会は、織田信長の許可を得て現在の京都市中京区蛸薬師通室町西入ルに3階建ての聖堂を建築しました。のち、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出た際に破却されています。
(写真:国立歴史民俗博物館にて ※複製)
○信長の性格
そんな信長の性格をまとめるとこんな感じ。1.冷酷かつ残忍
長島の一向一揆では2万人を虐殺、規律を破るものは即刻、打ち首など・・・。特に裏切りへの報復は凄まじく、前述の浅井長政のほか、荒木村重が裏切ったときには、一族520名を四軒の家に閉じ込め、火をつけて焼き殺したほど。ちなみに、荒木村重は一人で逃げ出して生き残り、茶人として堺で一生を終えました。
2.ワンマン
1と同じような内容ですが、ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532〜97年)曰く
「都で権威の高い武士ですら、信長の前に出ると、ただ手と額をひたすら前に付けて平伏するばかり。誰一人、彼の前で頭を上げるものはいない」
とのこと。ちなみにフロイスによると、信長は神や仏を全く信じず、死後は何も残らないと言い切っているとか。さらに自分のことを第六天魔王と名乗り、人々に呼ばせていました。また、声がとにかく大きく、それもあって人々は恐れていました。
3.新しい物好き
珍しいものが大好きで、南蛮文化を気に入りマントを身に着けたり、ビロードの南蛮笠をかぶったり、なんと黒人を家臣にしたり・・・(なお、本能寺の変にも巻き込まれしたが、その後の消息は不明です)。また、宣教師のオルガンチーノに地球儀を見せられ「地球は丸い」と教えられたときも「なるほど、その通りだ」と直ぐに納得。
地球儀
1632年にローマで製作されたもの。信長が見た地球儀もこんな感じだったのでしょうか。
(写真:国立歴史民俗博物館にて ※複製)
紙本着色南蛮人来朝図屏風(右隻)
桃山時代の作品。よく見ると南蛮人御一行の中に、肌が黒い方もいらっしゃいますね。
(写真:国立歴史民俗博物館にて)
4.意外と心配り
必ずしも「魔王」なのかといえばそうではない。羽柴秀吉の夫婦喧嘩を仲裁する手紙を送ったり、柴田勝家にこと細かくアドバイスしたりなど、これでなかなか気を使っているようです。特に柴田勝家に対しては絶対的な信頼を寄せていました。
元々勝家は、信長が家督を相続するときに、信長の弟である織田信勝(信行)を支援していたにもかかわらず、信長に降伏したあとは忠実な家臣となり、織田家最強の猛将として活躍しました。能力が非常に高く、しかも絶対的な忠誠心の持ち主となれば、信長としては文句無し。常に織田家一番の武将として遇しました。
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