第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策
○今回の年表
1590年 | 豊臣秀吉、小田原を攻略し北条氏を滅亡させる。また、伊達政宗が降伏し奥州を平定。天下統一。 |
1591年 | 豊臣秀長が亡くなる。 |
1592年 | 文禄の役。豊臣秀吉、朝鮮の攻略を開始(〜93年)。 |
1593年 | オスマン朝、オーストリアへ侵攻。 |
1593年 | (中国東北部)ヌルハチが女真族の各部族をほぼ統一。*文禄の役の影響で、明があまり介入できなかったことも統一に成功した要因の1つ。これが、後の清王朝成立につながります。 |
1595年 | 豊臣秀次が切腹させられる。 |
1596年 | 慶長の役。豊臣秀吉、再び朝鮮の攻略を開始。 |
1597年 | 豊臣秀吉が死去。豊臣軍、朝鮮から退却。 |
○後継者に恵まない秀吉
こうして天下を取った秀吉でしたが、自分の子供が出来ないという悩みがありました。正妻である北政所(きたのまんどころ)こと寧々(ねね)との間はもちろん、それはもう数多くの女性に手を出してはいたのですが、長浜城主時代に息子が一人誕生し、早世した以外は子供に恵まれません。
ところが1589(天正17)年、側室としていた浅井茶々(浅井長政と、お市の方の娘)との間に待望の息子が誕生しました。鶴松と名づけられ、53歳だった秀吉は大喜び。茶々は淀城(京都府京都市伏見区)を与えられ、通称として淀の方、後世には淀殿(よどどの)と呼ばれるようになります。このコーナーでは、以後は彼女のことを一般に良く知られている淀殿と表記します。
しかし残念ながら・・・鶴松は3歳で亡くなってしまい、秀吉は失意のどん底に。そんなこともあり、秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次に譲り、太閤(=たいこう。関白をゆずった者)となりました。というわけで、「まさか、もう次の子供は出来まい」と、秀次が秀吉の後継者であると、考えられるようになります。
ところが、後述する文禄の役のさなか、1593(文禄2)年に再び淀君は秀吉の子供を生みます。これが後の豊臣秀頼(1593〜1615年)で、「わしはこの子に絶対に政権譲るぞ!」と秀吉は固く決意します。そこで、なんと後継者争いで邪魔になる豊臣秀次を謀反の疑いで切腹させ、さらに彼の妻妾や子供たちも皆殺しにするという、わが子可愛さから出た凄まじい虐殺に出ました。
秀次一族の粛清。
結局、この行為は数少ない豊臣一族を自ら失わせた挙句、豊臣秀次の家老として付けていた最古参の家臣、前野長康をも切腹させてしまい、さらにやはり秀次家老の山内一豊や田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏ら有力武将達は後に、徳川家康に協力するようになったため、豊臣家滅亡の一因へと繋がっていきます。なお、調整役として絶大な才能を発揮していた秀吉の弟、豊臣秀長は既に亡くなっています。
近江八幡の町並み
近江八幡は豊臣秀次が安土城に代わって城下町を開いた場所で、碁盤の目のように道路が整備され、整然とした城下町が形成されました。彼の死後、近江八幡城は間もなく廃城となりますが、秀次が集めた商人たちは、たくましく全国規模で商売を行い、全国に近江商人の名を知らしめ、近江八幡は商人の町として大いに発展しました。
八幡堀
豊臣秀次が城下町を開いた際に琵琶湖を往来する荷船すべてを八幡に寄航させる目的で作られた運河です。一時期は放置され埋め立て計画も出ましたが、地元の運動により昔の姿をとどめたまま現在に至ってます。また時代劇のロケ地としても有名なようです。
○文禄・慶長の役
さて、日本を統一した秀吉は、次に中国大陸を手に入れたいと考えるようになりました。そこで、明(みん)へ攻め込むにあたって、朝鮮に道案内をさせるべく、対馬の宗氏を介して交渉しますが、「何を馬鹿なことを」と拒絶。
激怒した秀吉は、肥前(佐賀県)に名護屋城を築城させて朝鮮侵略の拠点とし、秀吉子飼いの武将である加藤清正、小西行長を中心とし15万人以上の軍勢を朝鮮半島に送り込みました(左図)。
最初は、戦国時代を勝ち抜いてきた秀吉の軍勢が圧倒的な強さを発揮し、さらに朝鮮政府に不満を持つ人々の協力もあって、漢城(現在のソウル)、平壌を攻略し、明との国境近くまで軍を進めます。
しかし明から朝鮮へ援軍が到着し、さらに李舜臣(イ・スンシン 1545〜98年)率いる朝鮮水軍が海上を支配するようになると、補給が届きにくくなります(ただし、完全封鎖に成功したわけではなく、しばしば李舜臣も戦いには負けていますし、むしろ補給面で困ったのは九州〜釜山の海上ルートではなく、朝鮮半島内の豊臣軍だったとも言われています)。さらに次第に民衆からの抵抗にも遭い、平壌で小西行長軍が明の軍隊に敗北。
そのため、小西行長たちは明との講和交渉に入ります(もっとも、肝心の朝鮮は無視されていたようで・・・)。
ところが秀吉は、まさか負けて講和交渉しているとは思っておらず、「朝鮮南部4道の割譲」「勘合貿易の復活」などを講和条件として提示。これに対し、明は金印を携え「豊臣秀吉を日本国王に任命する」「朝鮮から撤退し、再び攻め込むな」と返答したため、秀吉は「ワシの要求が何一つ受け入れられていないではないか!」と激怒。
明皇帝勅諭
平秀吉(豊臣秀吉)を日本国王と為すとあります。
(写真:国立歴史民俗博物館にて ※複製)
そこで1597(慶長2)年、14万人の軍勢で再び朝鮮半島に侵略を開始します。
しかし朝鮮半島南部で、朝鮮軍と明軍の激しい抵抗に遭い、そして秀吉が翌年8月に亡くなったことから、ついに撤退しました(ちなみに、この日本軍の撤退戦で李舜臣は戦死しています)。このために朝鮮半島は人口減、耕地の破壊など大いに疲弊し、明も多額の財政支出で国家が傾き滅亡への要因の1つとなります。
さらに豊臣政権も各大名が疲弊する一方、
「関東の統治に手一杯で出陣する余裕がない」
と、うまく朝鮮に軍を派遣せずに済んだ徳川家康が勢力を保持するなど、今後の豊臣政権に暗い影を落としました。その一方、このときに朝鮮から陶工に携わる技術者が日本に連れてこられ、唐津焼や薩摩焼などとして花開くことになります。
亀甲船
李舜臣率いる水軍の主力となったのが、亀甲船。甲板をカメの甲羅のように、トゲのついた金属板で覆うことで火矢などの攻撃を防ぎ、船腹から火砲をぶっ放しました。(ソウル 戦争博物館にて)
延安城戦闘の図
1592年8月28日に行われた戦闘。日本側は黒田長政が戦っています。(ソウル 戦争博物館にて)
昌徳宮(チャンドックン)敦化門
漢城(現在のソウル)に入った豊臣軍は、王宮を始め多数の建物を焼き払いました。しかし幸いにも、昌徳宮の敦化門は焼失を免れて現存しています。
李舜臣銅像
ソウルの官庁街にある大通り、世宗路に設置されている銅像。韓国ではしばしば、抗日戦争の英雄的に李舜臣を賛美しています。
○秀吉の政策
さて、それでは秀吉の政策についてみていきましょう。秀吉の政治の特徴は、自らの正統性を確保するために朝廷による伝統的な権威を利用し、関白、太政大臣として政治を行ったこと。また、明るい性格とは裏腹に政治運営は独裁的で、統治機構を整える前に秀吉は亡くなりました。一方、久しぶりの全国政権ということで、全国規模で色々なものが統一されていきます。
まずは土地や百姓に関する政策。
1.検地(太閤検地)
1582〜98年にかけて、全国各地の農地の収穫高などを調べさせたもので、諸大名に検地帳(別名:御前帳/関白が天皇に献上する帳簿、の意味)と、国絵図を提出させました。そして、ここから石高(こくだか)を基準とした大名知行制が確立します。従来は、貫高制といって土地面積に対して、銭何貫文(かんもん)を課税するという仕組みだったのですが、これでは実際の生産高とは関係のは無く課税されてしまいます。そこで、「この土地はどれだけ収穫できるか」を基準に変えるという、抜本的な改正で、江戸時代を通じて基準となります。
石田三成、浅野長政、増田長盛といった、秀吉の官僚系の武将たちが検地奉行として職務を遂行しました。
2.刀狩令
1588年に出されたもので、農民(百姓)の武具を没収。これによって、半農半武士のような農民を無くし、また一揆などを起こしづらくします。農民はあくまで農民、と身分を分離することにもつながりました。
刀狩令
諸国百姓、刀・わきさし・弓・鑓・鉄炮、其外武具のたくひ所持候事、かたく御停止候・・・とあります。
(写真:国立歴史民俗博物館にて ※複製)
3.人掃令(ひとばらいれい)
1591年、92年に出されたもので、武家奉公人が町人や農民になることを禁止。身分の固定化をねらったものです。
4.面積・容積の統一
太閤検地に関連して、戦国時代には大名によって基準がバラバラだった面積や、容量の単位を全国共通のものに統一。
5.五大老・五奉行
秀吉の晩年に、息子の豊臣秀頼を補佐させるために設置した組織。
五大老は、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝の5人で、五奉行の顧問を務めます。
五奉行は、浅野長政(司法)、石田三成(行政)、増田長盛(土木)、長束正家(財務)、前田玄以(宗教)の5人でした。
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