第40回 関ヶ原の戦い(1)

○主な登場人物の全国分布



○頼みの前田利家は、まもなく亡くなり・・・

 尾張中村の百姓から天下人にまで上り詰めた、太閤殿下こと豊臣秀吉。
 その最期を迎えるに当たって、息子の豊臣秀頼の行く末が心配であると同時に、やはり強大な勢力を持っていた徳川家康の動きが心配だったようです。そこで北陸に大きな領地を持ち、大親友である前田利家(まえだとしいえ 1538〜99年)を対抗馬として頼みの綱とし、家康と共に五大老の一人に任命していました。案の定、家康は秀吉死後に態度を変え、有力大名と無許可で姻戚関係を結ぶなど、秀吉が決めたルールを無視する行動をとるようになり、親家康派を増やしていきます。

 さて、慶長の役が終わり、加藤清正らが朝鮮半島から帰還してきました。
 そして戦後処理が進み、落ち着いてくると加藤清正、福島正則、黒田長政ら主に朝鮮半島で戦った武断派と、秀吉の腹心としてあれこれ命令書を送っていた石田三成ら吏僚派などの間で、次第に反目するようになって行きました。

 まあ元々仲が悪かったのはありますが、あまり統治機構を整えなかった秀吉時代から、いよいよ石田三成らは豊臣秀頼を中心に、しっかりとした統治機構を作ろうと考えていた。そうすると既存の秀吉有力家臣たちの権力を押さえるような雰囲気になるのですが、「朝鮮で戦わなかった人間に、あれこれ指図されてなるものか」と、加藤清正らは御不満顔。

 そこに目をつけたのが徳川家康。何かと清正たちに目をかけてやって恩をバラまいていきます。一方、石田三成らは人望も厚い前田利家を頼ることで、家康らの動きをけん制します。特に1599(慶長4)年1月には、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝ら4大老が「亡き太閤殿下(秀吉)の決め事にそむいて、勝手に諸大名と婚姻を結ぶな」と、家康を責めています。ところが、前田利家が1599(慶長4)年に61歳で死去。

 これで、「前田のジイさんがいなければ、あとは内府殿(=内大臣の意味で、家康のこと。)が我らを堂々と支援してくださる」と、ついに加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7人はクーデターを決行! 石田三成を襲撃します。

 そこで石田三成は徳川家康の仲介を頼みます。家康も「ここで三成を殺して、豊臣家が1つにまとまっては困る」と考え、喧嘩の仲裁に乗り出しました。しかし三成は、奉行職を失脚し、領地である佐和山城(滋賀県彦根市)に引きこもる羽目になりました。さらに、家康は他の五大老たちを領地へ帰還させ、自分だけが、秀吉が晩年を過ごした京都の伏見城へ入り、五大老の権限を1人で振るいました。

 これに対して、石田三成は「反家康」の仲間を集めて立ち上がりますが、関ヶ原で行われた戦いで敗北し処刑。
 いよいよ徳川家康が豊臣家に代わって、天下取りに向けた王手をかけました、というのが結論なのですが、もちろんそんなアッサリとした記述では面白くありませんよね。というわけで、ここから先は、関ヶ原の戦いについて、そこそこ詳しく書いていきますよ。



佐和山城
 現在の彦根城とJR東海道線をはさんで反対側にある佐和山城。関ヶ原の戦いの後、三成の父である石田正継らが籠城し、徳川軍と戦い壮絶な最期を遂げています。

宗安寺山門 (彦根市)
 彦根城が出来ると破却されて建造物等が残っていない佐和山城ですが、彦根市内の宗安寺に佐和山城の表門であったと伝えられる門が残っています。

○上杉景勝への挑発

 さあ、そして家康、三成共に天下を賭けた大一番の勝負に出ます。
 1600(慶長5)年4月、徳川家康は五大老の一人で会津(現在の福島県会津若松市とその周辺)で大きな領地を持つ大名、上杉景勝(うえすぎかげかつ 1556〜1623年)に対して
 「無断で城の修築や道路の整備をやっておる。豊臣家に反抗するつもりか、上洛して弁明したまえ」
 と挑発します。要するに、反家康派を決起させてやろうというのが魂胆。

 というか景勝も景勝で
 「上方(京都)の武士が茶器を集めるように、我ら田舎武士は槍や弓矢を集める。道路や橋を設置したと言うが、謀反をするなら逆にこれを塞ぐのが常道である。不審なら国境を存分に調べたまえ。大軍で攻めてくるのなら、事はおいでになった時に」
 と返答してますので、家康を挑発したというべきか。家康、狙い通りとは思いながらも
 「ワシは63歳になったが、これほど無礼な文を手にしたことがない」
 と怒り、諸大名を率いて、いざ会津に向けて出陣を開始しました。

○石田三成、決起!

 家康の計画に乗せられていることはわかっていても、石田三成としては
「家康が大坂にいない、今こそ私が好き勝手に動けるチャンス」
 というわけで、早速味方を集め始めます。それに、秀吉が亡くなって時間が経てば経つほど、次第に人々から秀吉の記憶も薄れていくもの。今のうちに家康と決戦して、打ち破っておくべきだと考えたのだと思います。

 そこで三成はまず、敦賀(福井県)の大名で友人の大谷吉継(おおたによしつぐ 1559〜1600年)に、計画を打ち明けますが「君では内府には勝てない」と説得します。なにしろ、家康は関東で240万石という大きな領地を持つ大名。ところが三成は、現在の彦根市にあたる佐和山に19万石をもつのみ。格が全然違います。しかし、三成の意志は固いものだった。三成は計画を進め始め、吉継は家康の会津討伐に加わるべく出陣します。

 それでも長年の友情から、吉継は引き返して三成に味方し、五奉行の1人である増田長盛や、毛利家の外交を担っていた安国寺恵瓊という僧と協議の上で、五大老の1人で中国地方の”大”大名、毛利輝元を総大将とすることを決定しました。

 毛利輝元の従兄弟である吉川広家(きっかわひろいえ  1561〜1625年)は「家康に味方するべきだ」と猛反発し、安国寺恵瓊と激しく対立しますが、輝元は大坂城に入り、西軍の総大将となることを受諾しました。しかし、吉川広家は家康派の、黒田長政を通じて「実は毛利は内府殿の味方です。」と内通し、戦後に毛利家の領土を減らさないよう、約束させました。おやおや、最初からこんな状況です。


 まあそうはいったものの、毛利輝元を総大将にしたこともあって、主に中国、四国、九州方面の大名が石田三成に味方し家康と対抗することになりました。特に宇喜多秀家は秀吉から可愛がられていたこともあって、「早く家康と戦いたい」と、実は石田三成よりも早く決起したとの説もあるぐらいです。

 ここから石田三成らの軍勢を、ここから西軍と表記します。石田三成、宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂を中心とした4万人もの軍勢は7月19日、徳川家康の重臣、鳥居元忠(とりいもとただ 1539〜1600年)が守る伏見城(京都)の攻略を開始します。

○伏見城の戦い

 さて、その伏見城。
 これは豊臣秀吉が1594(文禄3)年に、現在の京都市南部に造った邸宅を兼ねた城郭で、秀吉が死んだ後は家康が関西における本拠として使っていました。家康は、三成が兵を挙げるとすれば、真っ先に伏見城を攻略しにくると考えましたが、決戦はもちろん別の場所でつける以上、伏見城には必要最低限の兵士しか残せない。

 ・・・ということは、確実に負けることが解っている戦いに、どの家臣を残そう。
 その結果、鳥居元忠(とりいもとただ 1539〜1600年)を総大将とし、内藤家長、松平近正、松平家忠という譜代の家臣、それから1800名という僅かな兵士を残しました。

 鳥居元忠は、家康が駿河の戦国大名、今川義元の人質だった頃からずっと従っている武将で、これまでの家康の戦いの中でも多数の武功を立てている人物。その信頼関係も並大抵のものではなく、まさに家康にとって「俺のために死んでくれ」といえる人物でした。とは言え、数々の権謀術数を駆使する家康でさえ、その別れの夜は話しながら涙が止まらず、とうとう鳥居元忠に「明日は早いのだから、いい加減に寝なされ」と、ようやく別れたとか。

 そして7月19日の夕方に戦いがスタート。
 戦いを前に徳川軍では、家康のいる関東に戻った方が良いという意見も出ましたが、鳥居元忠は「籠城するのが得かどうかを判断するのは論外だ。主命に従って戦うまでよ」と一蹴。なんと半月にわたって、西軍の大軍を相手に奮闘し、8月1日に玉砕し、鳥居元忠は自刀して果てました。

○将来の幕府滅亡は、ここに原因がった?

 ところで実は、薩摩の大名である島津義弘もまた、家康によって「伏見城を守って欲しい」と言われていました。義弘は朝鮮での戦いで朝鮮と明の水軍に大打撃を与え、李舜臣を戦死させるなどして「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられた猛将で、家康としてはもちろん味方してもらいたいところ。しかし、何故か鳥居元忠は「島津殿が伏見城に来るとは殿(家康)から聞いてはおらん。出てけ!」と発砲。この仕打ちにもちろん、「内府め、良くも恥をかかせたな!」と激怒し、石田三成に味方することになりました。

 後に家康は薩摩を仮想敵として考え、事実、江戸幕府は薩摩藩が原動力の1つとなって倒されてしまった。このとき鳥居元忠が、もっと丁重な断り方をしていれば・・・もしかすると歴史はまた変わっていたのかもしれませんね。もっとも、この話は島津氏側の創作という説も有力です。さてさて、真相やいかに?



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