第43回 大坂冬の陣・夏の陣

○大坂冬の陣

 家康の挑発に乗り挙兵した豊臣方は、豊臣秀頼とその母である淀殿をリーダーとし、現役の大名こそ誰も味方しませんでしたが、前述の通り所領を失った大名や浪人を集め大坂城に立てこもりました。その数、およそ10万人といわれています。一方、徳川家康は息子で2代将軍の徳川秀忠と共に10月1日に出陣。諸大名の軍勢とあわせて約20万の軍勢で、大坂城包囲を開始します。

 そして11月15日、家康らは現在、天王寺動物園がある大坂城の西南、茶臼山に着陣して攻撃開始。緒戦は徳川方が豊臣方の砦を攻略するなど勝利して豊臣方を大坂城に撤退させますが、対する豊臣側も、関ヶ原の戦いのときに上田城で徳川秀忠を釘付けにした真田昌幸の子、真田信繁(俗に幸村)や後藤又兵衛基次らの奮戦によって大坂城で激しく抵抗し、思いのほか強さを発揮しました。

 もっとも、真田信繁らは「大坂城に頼らず、様々な場所へ打って出て、敵を混乱させましょう」と様々な作戦を提案するのですが、淀殿や豊臣家を仕切っていた大野治長(おおのはるなが)治房(はるふさ)兄弟らは「その必要は無い」と取り上げません。それどころか、大坂城内からは「真田信繁は、兄の真田信之が家康の重臣なのだから、敵のスパイかもしれない」と言われる始末・・・。

 ともかく「冬の陣」、ということで寒い。これほど豊臣家内部がまとまっていなくても、予想外の抵抗に戦いが長期化することになれば、兵士たちの士気にかかわります。

 そこで家康、力攻めではなく神経戦に移行。
 かねてよりイギリスなどから輸入しておいた大砲を用意して、大坂城に向けてバカスカ発射します(と言っても、着弾した弾が爆発するわけではなく、単純に石の弾が飛んでいくだけですが)。さらに、わざと豊臣方に見えるように大坂城に向けた地下トンネル工事を開始。連日の砲撃と迫り来る(と思われる)地下通路工事に、リーダーの淀殿がビックリ仰天。家康が併せて提示してきた、和睦しましょう、の申し出を「これで恐怖から解放されるわ!」と受け入れてしまいました。

 家康方からは腹心の本多正純、そして家康側室の阿茶局、豊臣方からは淀殿の妹、常高院(浅井初)が出席して和睦が調印。常高院の妹である小督こと”お江与”は徳川秀忠の正室ですから、可哀想に常高院は姉と妹の陣営を和睦させるために大変な思いだったと思われます。

 さて、かくして結ばれた和睦の条件ですが。
 徳川方からは本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。 *誰がやるのか、と書いてないのがミソ。
 豊臣方からは豊臣秀頼の身の安全の保障、豊臣に味方した者達へ責任を問わないこと。
などが条件され合意。

 家康はさっそく、鉄壁の守りだった大坂城の三の丸の破壊に取り掛かり、さらに二の丸までぶっ壊してしまいました。これに淀殿らは激怒! 「たしかに二の丸の破壊は条件だが、それは我々が(自分のペースでゆ〜っくりと)やることで、家康がするとは聞いてないぞ!」

○大坂夏の陣

 かくして豊臣方は再び挙兵準備を開始。家康も「大坂城の堅固な機能を失った豊臣など、ひねり潰してくれるわ!」と出陣します。豊臣方は大坂城から出陣し、大野治長が大和郡山城を陥落させ、さらに堺の町を焼くなど果敢に戦いを挑みますが、今回集められた兵士は5万人程度ということもあり、約10万人の徳川軍に次第に追い詰められ、後藤又兵衛や木村重成など、豊臣方の主要な武将が戦死していきます。

 そして決戦となったのが5月7日の天王寺・岡山合戦。
 豊臣方の毛利勝永は、徳川軍の先鋒である本多忠朝を討ち取り、家康の本陣向けて一気に突撃! そこに加えて、真田信繁(幸村)も家康めがけて一直線に突撃を開始。家康本陣に肉薄し、家康は「これはもうだめだ!」と、二度も自害することを考えたほど。それでも、さすがに多勢に無勢。なんとか家康らは耐え抜き夕方近くになって、毛利勝永や真田信繁が戦死したことにより豊臣方の軍勢は壊滅しました。

 大野治長は秀頼の正室で、徳川秀忠の娘である千姫を家康に送還すると共に、「秀頼と淀殿の助命を!」と懇願しますが家康は無視。燃え盛る大坂城で、ついに秀頼や淀殿らは自害し果て、豊臣家は滅亡しました。ただ、豊臣という姓は、秀吉の正室、北政所の実家である木下家が公式に名乗ることを許され、江戸時代を通じて足守藩主(現在の岡山市北部)として存続しています。



天王寺動物園
 ライオンやキリン、そして家族連れでにぎわう天王寺動物園。家康の本陣が置かれ、真田信繁(幸村)らの猛攻にさらされました。

○そして・・・

 秀頼と千姫の間には子供がいませんでしたが、秀頼と側室の間には国松という8歳の息子と、娘がいました。家康は、ここで甘い顔をせず、国松を京都市中引き回しの上、斬首とすることで豊臣家の最後を人々に印象付けました。一方、さすがに娘は助けられ、鎌倉の東慶寺に入れられました。また、千姫は姫路藩主、本多忠政の嫡男である本多忠刻と再婚しますが、子供は娘(勝姫)一人しか成人せず、本多忠刻も家督を継ぐ前に亡くなるなど、なかなか幸せな人生はおくれなかったようです。

 さて、豊臣家を滅亡させて安心した家康は、その翌年春に息を引き取りました。

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