第46回 徳川家綱の時代とシャクシャインの蜂起

○今回の年表

1651年 徳川家光、死去。由比正雪の乱(慶安の変)が起こる。
1657年 明暦の大火(振袖火事)が発生し、江戸の6割が焼失する。
1661年 (フランス)ルイ14世が親政を開始する。
  (中国)康熙帝が清の皇帝として即位する。
1663年 武家諸法度を改正し、殉死を禁止する。
1668年 岡山藩主の池田光政が閑谷学校(しずたにがっこう)を設立する。
1669年 蝦夷地(北海道)でシャクシャインを中心としたアイヌの人たちが蜂起する。
1670年 (ロシア)シベリアでコサックの反乱が起こる。
1671年 河村瑞賢が東廻り海運を開設する。
1672年 河村瑞賢が西廻り海運を開設する。
1673年 三井高利、江戸と京都に越後屋呉服店を開く(三越百貨店や三井グループの始まり)。
  初代市川団十郎が江戸で歌舞伎(荒事)を開始。
1678年 初代坂田藤十郎が大坂で歌舞伎(和事)を開始。
1680年 徳川綱吉が第4代将軍となる。

○幕府転覆計画も登場!

 さて、徳川家光の跡を継いだのが息子の徳川家綱ですが、当時僅か11歳。
 というのも、家光自身が48歳という若さで無くなり、そして彼には跡継ぎが生まれなかった(特に若い頃は男の方が好きだったとか)。38歳にして、ようやく側室に生ませたのがこの家綱でした。

 社会不安が起こるのは当然で、早速秀忠・家光時代に改易されて職を失った浪人(牢人)達に不穏な動きが発生。その最たるものが家光が亡くなった3ヵ月後に発覚した、慶安(けいあん)の変、すなわち由比正雪(1605〜51年)丸橋忠弥による幕府転覆計画です。由比正雪らが駿府(現在の静岡)の町に放火し、城から武器を奪い久能山に立てこもる一方、丸橋忠弥らが江戸に火を放ち、混乱に乗じて将軍家綱を誘拐し、久能山に合流・・・。

 幸い未然に密告があり発覚しこれを防ぐことが出来きましたし、そもそも成功するのか否かという問題はありましたが、幕府に与えた影響は大きく、浪人を取り締まったり、浪人を出さないよう改易を大幅に減少していきます。 

 それから大名の改易をさらに減らすため、従来は大名が亡くなったときに後継者がいないと即座に取り潰したのを改め、末期養子の禁を緩和しました。すなわち、後継者を定めていなかった50歳未満の大名が危篤のときに駆け込みで養子を見つけてくることを許可したのです。

 家綱の治世は将軍があれこれ指図をするのではなく、前半が家光時代からの重臣:松平信綱酒井忠勝阿部忠秋保科正之が取り仕切る集団指導体制へ。そして治世の後半は大老に就任した酒井忠清(1624〜81年)を中心とした政治が行われました。そして家綱も長生きはせず、40歳の若さで死去しました。

 ところで1657(明暦3)年には江戸の6割が焼失するという、明暦の大火が発生。
 江戸は木造家屋が密集していることもあり、火の手が上がるとあっという間に燃え広がる傾向があります。これ以後、極端な話をすれば関東大震災に至るまで、とにかく火事に悩まされ続けました。ちなみに江戸城の天守閣はこのときに焼失して以降、「天下太平の世には無用。無駄な出費は避けるべき」という保科正之の意見もあって、再建されませんでした。

 一方、保科正之は江戸の主要な道の拡幅や神田川の拡張などにより、簡単に火が燃え広がらないように江戸の改造を始めさせました。木造家屋が密集している状態では、どこかの家で火がついてしまっただけで、江戸中に燃え広がってしまいます。江戸の火災対策は、これからも歴代政権にとって頭の痛い問題であり続けました。・・・現代は現代で、これほど地震が多いのに巨大な墓石みたいなビルやマンションが建設される東京は災害に弱そうですが・・・。


江戸広小路の様子
写真奥が日本橋。明暦の大火を受けて、幕府は一部の家屋を立ち退かせて明地(あきち)を設けさせました。

江戸広小路の様子
町民たちは明地の掃除など管理が命じられましたが、費用捻出のために仮設の店舗(床店)を貸し付けることが許されました。

江戸広小路の様子
延焼防止のための巨大な三角形状の空き地も設けられました。

 それから家綱の時代ではもう1つ。
 戦国時代の殺伐とした雰囲気から一変し、この頃は忠義が重んじられるようになりました。そこで、主君が亡くなると重臣も後を追って切腹して果てる殉死というのが流行していました。幕府内でも徳川家光の死に際しては、堀田正盛阿部重次という2人の老中などが命を絶っています。 それだけ忠義を尽くした、というのを後々にPRしたかったのでしょうが、これで有能な家臣を失っては仕方が無い。

 そこで1663年には殉死禁止令が出され、殉死者を出した藩は処罰されることになりました。
 これらに代表されるように、家綱の時代の政治を文治政治といい、従来の武断政治から転換した・・・とされます。

○明の再興運動には援助せず

 ところで家光の時代である1644年、中国では(みん)王朝が李自成による農民反乱によって滅亡。代わって、中国の東北部から勃興した、女真族の王朝である(しん)が中国全土を制圧しました。もちろん、これに対して明の復興を掲げて反乱を起こしますが、その中でも日本に援助を求めてきたのが、鄭成功(ていせいこう 1624〜62年)という人物でした。

 彼は平戸(ひらど/現、長崎県平戸市)で、鄭芝竜と日本人の母との間に生まれ7歳で中国へ。清の侵攻に対して、鄭芝竜は抵抗のシンボルとして朱聿鍵(しゅいつけん)という皇族を隆武帝として擁立して抵抗運動を開始します。そして1646年、家光政権の末期に「援軍を!」と要請を行い、幕府内でも結構真剣に出兵の議論が検討されましたが、鄭成功の拠点であった福州城が陥落というニュースが入ってくると「鄭成功は勝てそうにない」と判断。

 隆武帝が殺され、父の鄭芝竜が清に降った後も、鄭成功は抵抗を続け、日本に対しては家綱時代の1660年まで、3度にわたり援軍要請が来ますが、幕府は無視し続けました。

 そして1662年、鄭成功は台湾を占領し、台湾史上初の漢民族政権を樹立。反抗の機会をうかがいましたが、その年のうち死去。鄭経らの息子達が台湾統治を行いますが、1683年に清の攻撃を受けて滅亡しています。

○コシャマインの戦い


 さて、ここでこの時代における、現在の北海道、当時の蝦夷(えぞ)における松前藩と、現在ではアイヌと総称される現地の民族との関係についても見ておきたいと思います。
 *アイヌとは神(カムイ)に対する、「人間」を意味する言葉です。隣人を意味するウタリという呼称を用いることもあります。

 少し話を前に戻し、本格的に日本人が蝦夷に進出したのは15世紀ぐらい。
 豪族たちが津軽海峡付近、蝦夷南部に道南十二館(どうなん じゅうにたて)と総称される、主要なもので12の拠点を作り、群雄割拠状態になります。彼らはアイヌの人たちとの交易を行っていましたが、当然のことながら余所者が海を渡って次々と進出してくるのですから、人口のバランスが崩れるにつれ、アイヌたちと衝突が発生します。

 そんな中、1546(康正2)年に、現在の函館市東部、シノリの鍛冶屋村で日本人(和人)によるアイヌの青年が殺害される事件が起きます。これは、小刀を注文したアイヌの青年と、日本人の刀工が価格などで口論しているうちに、刀工がアイヌの青年を刺し殺してしまった事件。

 これが導火線となり、コシャマインという首長を中心とした大蜂起に発展。当初はアイヌ側が次々と豪族の館を陥落させていきますが、花沢館の蠣崎(かきざき)季繁の下に客将としていた武田信広は、残存する日本側の戦力を再編成するや、コシャマイン親子を射殺し、アイヌ勢を総崩れにします。

 そして武田信広は蠣崎氏を相続し、さらに子孫は松前氏を名乗り蝦夷南部を支配。豊臣秀吉から所領安堵され、さらに松前藩は幕府によってアイヌとの独占的な交易権を保障され、蝦夷の支配を強めました。

○シャクシャインの戦い

 さて松前藩は、上級家臣たちに場所商場(あきないば)と呼ばれる特定の地域において、アイヌとの交易権を知行として与えていました。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)といい、領地や年貢米の支給ではなく交易権を知行地とする、松前藩独特の、お給料の制度です。

 ところが、この商場知行制によってアイヌの各部族が、好きな場所で交易がしにくくなってしまいました。さらに最寄の相手としか交易が出来ない、つまり買い手=松前藩の上級家臣の立場が強くなり、従来よりも低い交換レートによる交易を余儀なくされ、アイヌ各部族の不満が高まり、そしてアイヌ側にも社会構造の変化があって、各地域で首長を中心とする有力な部族が急速に形成されていました(時には部族間で戦い、松前藩は仲裁者として介入していたようです)。


 そして1669年、シブチャリ(現在の北海道新ひだか町)の首長であるシャクシャインらが蜂起します。戦端が開かれた直接の発端は、漁業をする権利をめぐるアイヌの部族間対立と、その対応をめぐる松前藩への誤解もあったようですが、潜在的にあったこれまでの不満がとうとう爆発したのでした。

 戦いは瞬く間に周囲に広がり、現在の札幌よりさらに北の増毛や、釧路近くの白糠(しらぬか)まで起こり松前藩は苦戦を強いられます。松前藩主の松前矩広(まつまえのりひろ)が11歳と幼かったこともあり、幕府は旗本で松前藩主の一族である松前泰広を幕府上使として派遣する一方、弘前藩にも出陣を命令。島原の乱以後の大きな戦いとなりますが、2ヶ月で大勢は決しました。

 しかし、ゲリラ戦法による散発的な戦いの長期化を恐れた松前藩は、和議を提案してシャクシャインを誘き寄せ、祝宴の席で謀殺しました。これによって各地のアイヌは降伏が相次ぎ、また松前藩は各地のアイヌの首長達に無条件の忠誠、他藩との交易の禁止などを命じていきました。

 また、これ以後は蝦夷に進出してきた日本の商人たちが松前藩の上級家臣に代わって、「場所」における交易を請け負う場所請負制度へと次第に変化していき、さらに交易の主導権が日本側に。中には漁業をアイヌの人たちに強制する者も現れたようです。こうなると交易の相手方ではなく、漁業の労務者としての扱いでした。

 特に飛騨屋久兵衛という商人が請け負っていた地域が、あまりにも酷い労働環境、さらには女性への乱暴も酷いものだったらしく、1789(寛政元)年に、マメキリを指導者とした国後(クナシリ)、セッパヤを指導者とした目梨(メナシ)のアイヌ部族130名が蜂起しますが、やはり松前藩によって徹底的に鎮圧されます。

 そして今度は、ロシア帝国が蝦夷に目をつけ始め、サハリンなど周辺に進出。幕府にとって、新たな脅威となり、1789年に幕府は東蝦夷を直轄地とし、これ以後はアイヌの人たちを日本に同化する政策も推進していきます。当然、猛反発されて実質的に撤回されました。・・・が、明治時代になっても着々と北海道の日本化が進められ、そもそもアイヌの人口が大幅に減少してていったことは周知の事実です。

 今やどれだけの人が、アイヌという北海道の先住民のことを認識しているでしょうか。また、津軽半島などにもアイヌ部族はいましたが、やはり同化されていっています。



蝦夷国魚場風俗図巻
 宝暦年間(1751〜64年)、小玉貞良(こだまていりょう)の作品。アイヌの人々による鮭漁の様子と和人との交易風景が描かれています。
(写真:国立歴史民俗博物館にて)

参考文献
ビジュアル版日本の歴史を見る7 天下泰平と江戸の賑わい (小和田哲男監修/世界文化社)
徳川十五代 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
合戦の日本史 (安田元久監修/主婦と生活社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
アイヌ民族の軌跡 (浪川健治著/山川出版社)
詳説日本史(山川出版社)

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