第50回 徳川吉宗と享保の改革

○今回の年表

1716年 徳川吉宗が第8代将軍となる。
1717年 大岡忠相を江戸町奉行に登用。
1719年 幕府、相対済し令を出す。
1721年 幕府、年貢の取立てに定免法を採用。
  幕府、目安箱を設置。これに寄せられた意見に基づき、小石川養生所が同年中に設置。
1722年 幕府、上げ米の制を定める。(〜1730年まで)
1723年 幕府、足高の制を定める。
1732年 享保の大飢饉が起こる。
1735年 (中国)清で乾隆帝が即位。
1742年 幕府、公事方御定書を定める。
1740年 オーストリア継承戦争が起こる。(〜1748年まで)
1745年 徳川吉宗、将軍位を徳川家重に譲る。

○どこまでが本当に偶然なのでしょうか?

 様々な政治的な根回しや、紀州藩主時代の実績などが功を奏して、見事に8代将軍の座を射止めたのが徳川吉宗(1684〜1751年)。紀州藩2代藩主徳川光貞の4男で、要するに兄貴が3人もいるわけですから、常識的には将軍の座はおろか、紀州藩主の座からも遠い存在だったわけで、泣かず飛ばずの一生を終えるはずでした。

 ところが。
 1705(宝永2)年に、紀州藩3代藩主となった長兄の徳川綱教(つなのり)が病死。さらに4代藩主となった次兄の徳川頼職(よりもと)も急死してしまいます。もう1人の兄もとっくに亡くなっていたため、吉宗に紀州藩主の座が巡ってきました。なお、当時は松平頼方と名乗っていましたが、紀州藩相続に際して、時の将軍であった徳川綱吉より一字をもらい、徳川吉宗と名乗ります。



和歌山城跡  徳川吉宗が藩主となった和歌山藩。その中心が和歌山城で、現在の天守閣は1958(昭和33)年に再建されたもの。1850(嘉永3)年に再建されたものを復元したもののため、吉宗が見ていた天守閣とは異なっています。
 さて、当時の紀州藩は財政が危機的な状況でした。
 江戸幕府もそうですけど、まだ組織が発足してから間もないと言うのに、もう財政危機というのも面白い話ではありますが、紀州藩の場合は
1.大地震など災害による被害の復旧費用の増大
2.初代藩主の徳川頼宣(よりのぶ)による和歌山城の増強費用
3.初代藩主の徳川頼宣による、改易された福島正則の旧臣たちなど、名だたる武将を片っ端からを召抱えたことによる人件費の増大(頼宣は、好きあらば天下をとなかなかの野心家だったわけですね)
4.3代藩主の徳川綱教が綱吉の娘と結婚していたので、その婚礼の莫大な費用
 (将軍の娘を迎えるのですから、単純な結婚式費用だけでは済まないのです)
5.さらに相次いで徳川光貞、綱教、頼職が亡くなった上に、その大々的な葬儀費用
 が多大な出費となりました。

 そこで徳川吉宗が行ったのは、要するに質素倹約を中心とした緊縮財政。殿様以下、家臣全員で無駄な出費を抑えようというもの。華美な服装は禁止、豪華な食事もしない。また余計な人員をクビにした上に、給料を20分の1カット。さらに、治水工事や新田開発により米収入を増やす。そして広く意見を募集するために訴訟箱を和歌山城の門外に設置し、庶民から意見を求めたともいわれます。

 こうして藩主就任から5年で貯蓄が出来るほど、紀州藩の改革に成功しました。
 ・・・と、そこで第6代将軍の徳川家宣が亡くなり、7代将軍の徳川家継は病弱で後継者探しが始まる。徳川宗家では徳川家宣の弟で、館林藩主に松平清武という人間が残っていましたが高齢の上に後継者がおらず、血統の面では、一度は家臣であり、育ての親であった越智氏の家督を相続していたため、これも将軍就任にふさわしくないと判断。

 あげくに藩政においては、重税に対する百姓の怒りが爆発。のちに館林騒動と呼ばれるほどの事態に発展。
 ということで、徳川秀忠の男系の血筋を引く人間は他にいませんでした。

 そこで前にも見ましたが、徳川家宣正室である天英院側は尾張家の徳川継友(1692〜1731年)を後継者に推し、月光院は紀州家の徳川吉宗(1684〜1751年)を推しました。最終的に、幕閣に根回しを行うことに成功し、何より紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗に白羽の矢が立てられます。血統の面ではもう1つ理由があって、本来の有力候補は御三家の格では上であった尾張家の当主。

 ところが相次いで若くして病死したために、最も徳川家康に近い世代は誰か? となったときに徳川吉宗であったのです。これも吉宗側の将軍就任PRの1つとなるわけですが、時期が時期であるだけに、紀州藩の陰謀ではないか?という黒い噂は、今もって歴史のミステリーです。

○まずは根回しが必要

 さて、1716年に徳川家継が亡くなると第8代将軍となりました。
 前回見たとおり、間部詮房や新井白石らはクビにして、「悪評の側用人制度はやめるぞ!」と、徳川家譜代の大名や旗本のご機嫌を取ります。また、もちろん吉宗単体で幕府に乗り込んでくるのではなく、紀州藩からも家臣を連れてくるのですが、そうすると派閥が2つ出来て対立する恐れがありますよね?

 そこで、吉宗は家臣をぞろぞろ引き抜いてくるのではなく、少数精鋭としたことで「我々のポストが奪われるのではないか?」という不安を払拭します。さらに天英院と月光院の生活費は手厚く面倒を見て、大奥が徳川吉宗を批判しないようにします。

 この頃から、日本全国各地でバカ殿が数多く発生する一方、財政再建に意欲的に取り組む藩主も数多く出てきました。中には今見ても、なかなか理にかなっているものもあるのですが、反対しそうな人間への根回しを怠ると、猛烈な抵抗に遭って孤立無援状態となり、改革を中止したり、下手をすれば隠居に追い込まれる例もありました。

 徳川吉宗は抜群の政治センスを持って、まずは初手から反対に遭わないよう、布石を打ったわけですね。

 その上で室鳩巣(むろきゅうそう 1658〜1734年)という、新井白石が推挙して徳川吉宗の政治顧問として活躍した朱子学者が「兼山秘策」という書物に書き残したところによりますと・・・。

 ある日のことです。土屋政直井上正岑(まさみね)といった老中達に
「今の幕府の収入はいくらか?」
 などと問いただしました。ところが、彼らは問いに即答できず、凡庸であることを見事に露呈。大いに彼らは恥じたらしいですが、将軍擁立の功で解任はしません。要するに「ポストはそのままにしてやる。しかし、無能だから黙っておけ」としたんですね。これで、彼らをしっかりと取り込んでおきます。

 そして側用人制度はやめておきながらも、紀州藩からつれてきた有馬氏倫(ありまうじのり)、加納久通(かのうひさみち)の2名を、側用取次に任命。結局のところ、やはり将軍の側近として活躍する役職で、大まかな役目は側用人と同じです。ただ、徳川綱吉が柳沢吉保を厚遇したのに対し、彼らは活躍の末期にようやく1万石の大名になった程度。

 また、徳川吉宗は自分の意思を組織の様々な場所に行き渡らせるために側用取次を活用。すなわち、老中と政策を協議する前には既に、この側用取次の仲介によって将軍の意思と担当奉行や役人との間で政策を決定。その上で、将軍と老中と政策協議に入る。もちろん、老中は「組織に持ち帰って検討します」となりますが、もはや出来レースのようなもの。

 老中にしてみれば、あまり面白い話ではないでしょうが、あくまで形式上は幕府の決まりにのっとり老中を尊重している上に、無能をさらけ出したところだったので、黙って受け入れるほかはありません。また、自らが発掘した人材の登用も次第に進めていきます。

 まず将軍に就任すると大岡忠相(1677〜1752年)を江戸町奉行に登用。有名なあの、大岡越前のことですが、いわゆる大岡裁きと呼ばれる裁判例は殆どが創作。彼はむしろ、吉宗による享保の改革の中心的人物として、様々な企画立案と実行を担った優秀な官僚で、問屋(といや)→仲買→小売という物流の組織を確立することによる、スムーズな流通機構の整備や、後に紹介しますが元文丁銀への貨幣改鋳、町火消し「いろは47組」を創設など、市民生活の安定に関わる様々な政策を行いました。





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