第53回 寛政の改革と伊能忠敬の日本測量

○今回の年表

1787年 徳川家斉が第11代将軍となる。松平定信が老中に就任。
  アメリカ合衆国憲法が制定。
1789年 国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌが蜂起。
  幕府が棄捐令(きえんれい)を出す。
  幕府が衣服・調度品等の奢侈(しゃし)禁止令を出す。
  フランス革命が起こる。
1790年 人足寄場を江戸石川島に設置。
  幕府が旧里帰農令を出す。
1791年 江戸の銭湯での混浴を禁止する。
1793年 松平定信、老中を辞職する。

○田沼意次の失脚

 前回見たとおり、産業振興に重点を置いた改革を行ってきた田沼意次でしたが、1783(天明3)年の浅間山(現在の群馬県と長野県にまたがる山)の大噴火によって、甲信越一帯に火山灰が積もり、さらに日照不足により田畑は凶作。これに代表される天候不順により、1782〜86年は東北地方を中心に天明の大飢饉と呼ばれる江戸時代の中でも特に深刻な飢饉が発生しました。

 人々の不満がたまる中、1784(天明4)年には旗本の佐野政言(まさこと)が、田沼意次の息子である田沼意知を刺殺する事件が発生し、たまたま米価が下落したこともあって、人々は佐野政言を「世直し大明神」として賞賛しました。さらに田沼意次が進めていた印旛沼の干拓工事も、1786(天明6)年に利根川の大洪水で失敗しました。

 そうは言っても、権勢盛んだった田沼意次でしたが、彼に政治を任せていた将軍、徳川家治が1786(天明6)年に亡くなったことは反田沼派にとって巻き返しの最大のチャンス。これまで田沼意次を使って、息子の徳川家斉を次の将軍候補とすることに成功した一橋家の徳川治済は、手のひらを返したかのように水面下で反田沼派の筆頭、松平定信(1758〜1829年)と手を組みます。

 そして徳川家斉が第11代将軍に就任すると、田沼意次は失脚して相良城と所領のうち4万7000石が没収。孫の田沼意明が1万石を相続することのみが許されました。

○改革の後には反動あり、寛政の「改革」?

 こうして発足した徳川家斉政権は、まずは老中首座となった松平定信を中心とした布陣で政治が開始されます。当時、彼の年齢は約30歳ですから、さぞかし仕事に燃えていたと思われます。そんな彼の祖父は、8代将軍の徳川吉宗(そういえば吉宗も30歳少し過ぎで将軍になってますね)。

 元々、松平定信は田安家の出身であり、もちろん将軍家に跡継ぎがいない場合には将軍就任の可能性もあったのですが、田沼意次を支援する徳川治済の陰謀によって白河藩(現在の福島県白河市)松平家へ養子に出させられました。これにより、松平定信は「打倒、田沼意次!」と憎悪したようです。・・・恨む相手を少し間違えているような。

 そして白河藩主に就任すると、先ほど紹介した天明の大飢饉が発生。松平定信は領民を救うべく、食料をどんどん領民に与え、東北地方では異例の餓死者ゼロを達成。名君として称えられます。・・・が、この食料供給は大量の米を市場で買い占めることにより実現した政策であったため、当然のことながら米価は急騰。他藩の人々は米を確保できず、餓死者を増加させる結果になりました。良い政策だったのか、とんでもない政策だったのか、微妙なところです。


 松平定信が藩主を務めた白河藩(福島県白河市)。JR白河駅の直ぐそばには、白河藩の本拠である小峰城跡があり、三重櫓と前御門が復元されています。

 学者としても一流であった松平定信は、自分の領内の史跡を調査し、奈良時代や平安時代には東北への入り口的な存在であった、白河の関跡を特定。1960年代に発掘調査が行われて土塁や空掘などが確認され、国の史跡に指定されています。
 さて、そんな松平定信。彼が中心となり1793年まで約6年にわたって行われた政治は寛政の改革と呼ばれます。まずその全体的な特徴を見ると・・・。

 @祖父、徳川吉宗の政治を目標とした復古的で、理想主義的な改革。
 A田沼時代の否定。朱子学に基づく農業を中心とした政策へ回帰。
 B思想を統制し、文武を奨励、幕府の権威と士風の立て直し。

 といった感じ。文武の奨励は大変結構ですが、何だか随分と形式的で保守的です。では、個別に見ましょう。経済関係は、かなり無茶なことをやっていますし、思想統制も現実無視といったところですが、そのほかでは中々面白いものもあります。、

○寛政の改革、その政策の中身とは?

@農村の復興
 今の中国でも問題になっていますが、田舎で農業をやるよりも江戸で働いた方が生活が出来る!と、多くの人たちが江戸に流れてきていました。「これでは農村が荒廃する!」というわけで、出稼ぎの制限や旧里帰農令(1790年)により、人口移動を制限することにしました。

 もちろん、さすがに無一文で「田舎に帰れ!」とそこまでは言わなかったようで、資金援助は行ったようです。

A財政関係
 享保の改革同様、倹約令(1787年)を出したほか、借金に苦しむ旗本、御家人を救済するため棄捐令(きえんれい/1789年)により、1784年以上前の借金は帳消し、6年以内の借金は利子の引き下げを強行しました。なんと約120万両がパーになったとか。・・・なんと、幕府の年間予算並みだったとも。

 一時的には効果は出るでしょうが、当然のことながら、お金を貸す立場の札差(ふださし)は
「もう武士には金を貸しません」
 となるわけでして・・・。そこで考えたのが、「だったら今度は札差に金を貸してしまえ!」というわけで、猿屋町御貸付金会所というのを設置して、札差に低金利で融資。生かさず、殺さず・・・と彼らを統制することにしました。

B飢饉や災害復旧などへの対応
 1789年に囲米(かこいまい)の制を発令し、諸藩に社倉、義倉を造らせて災害時のための穀物備蓄を命じます。
 また江戸では、町人と幕府が共同で七分積金(しちぶつみきん)と呼ばれる基金を積み立てさせ、道路や上下水道の修繕に運用されました。この政策はなかなか素晴らしいですね。

C職業訓練
 人足寄場を江戸石川島(現、東京都中央区)に設置。今で言うホームレスに職業訓練を行いました。当時は自暴自棄になっている荒くれ者も多かったでしょうから、これは治安対策としての効果も発揮しました。

D思想、出版統制

 出版統制令(1792年)により、洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、出版元の蔦谷重三郎を処罰。黄表紙というのは、大人向けの絵本で・・・と書くとエロ本みたいですが、幕府批判もあったもので、今で言う風刺漫画に近いもの。この処罰のお陰で、お堅いジャンルに変わって行き、松平定信の目標は達成。

 また、寛政異学の禁(1790年)により湯島聖堂の学問所で朱子学以外の学問を禁止し、儒学の中にも陽明学や古学など色々なジャンルがあったのですが、これをNGに。そして儒官に柴野栗山(しばのりつざん/1736〜1807年)、尾藤二州(びとうにしゅう/1745〜1813年)、岡田寒泉(おかだかんせん/1740〜1816年)を任命。彼らを寛政の三博士と言います。って、名前だけ載せても仕方が無いとは思いますが、難関大学では受験に出る可能性もありますので、一応・・・。

 この寛政異学の禁は、もちろん幕府内部で適用されるものですが、諸藩も幕府に倣う例が多く出ました。

 さらに林子平(はやししへい/1738〜93年)が「三国通覧図説」「海国兵談」という本を著して、海防の必要性を訴えますが「幕政批判とはもってのほか!」と処罰されました。こうやって学問の多様性、意見の封じ込めは結局のところ国力の衰退につながるのですが、松平定信ら幕府トップの方々には理解が出来なかったようです。

E海防の強化
 1792(寛政4)年、ロシアのアダム・ラクスマンが根室に来航します。これは、漂流民であった大黒屋光太夫らの送還と通商交渉を求めたもの。幕府は大黒屋光太夫らは受け入れる一方、通商交渉は拒否。長崎への入港証を与えるにとどめました。ちなみに、大黒屋光太夫は伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)出身。回船(運輸船)の船頭として、江戸に向かう途中で暴風雨に遭い遭難。

 アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、なんとロシアに渡ることになりました。そして独学でロシア語を勉強し、様々な学問を習得。ロシアの女帝、エカチェリナ2世に謁見して帰国の許可を得ています。

 本来であれば、先進的な知識を身につけたものとして大いに重用されるべきところ、一度を除いて故郷には自由に戻れず、江戸番町の薬園に軟禁されて後半生を送りました。一般市民に海外知識が広まるのを幕府が恐れたため、と色々な本で紹介されておりますが・・・。

 ただ、不遇だったかどうかは難しいところ。新たな妻を迎え、親族も江戸に来たそうで、さらに大槻玄沢、鷹見泉石など多数の蘭学者と交流して蘭学の発展に寄与しています。特に幕府の奥医師・桂川甫周がまとめた「北槎聞略」はロシア研究書の一級品。そう考えると、ロシアの情報も結構喋っているわけですし、それほど情報統制を命じられていたとも思えず、結構自由な後半生とも言えるわけで・・・。

○将軍との対立、老中辞任へ

 徳川家斉は15歳で将軍に就任したため、最初は松平定信に頼って政治を行っていましたが、彼の厳しい政治には不満を抱くようになっていたようです。もちろん、幕府内部や大奥からも定信批判が吹き上がっていました。

 そんな中で発生した、いわゆる大御所事件と尊号事件は、松平定信の追い落としに格好の材料となり、最終的には定信は老中を辞任せざるを得なくなります。さて、どのような事件だったのでしょうか。

 まず大御所事件とは1788(天明8)年、徳川家斉が実父である徳川治済を大御所と呼び、前将軍と同様の待遇を与えたいと意向を示したことに対し、定信が「大御所はあくまで前将軍のことであるからNo!」と反対し、断念させたこと。当然、家斉親子が面白いはずがありません。

 もっとも、将軍様ですから松平定信を即刻クビにして強行に・・・というのも出来たかもしれません。ところが、ここで問題となるのが、同時期に発生した尊号事件(尊号一件)。後桃園天皇に男子が無く、閑院宮家より養子でやってきて即位した光格天皇が、実父である閑院宮典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を送ろうとしたこと。つまり、家斉が考えていたことと殆ど同じだったわけ。

 これに対して松平定信は、大義名分などを大事にする朱子学を信奉する立場から「即位していない人間に太上天皇(上皇)の尊号を認めるわけにはいかない」と反対し、幕府と朝廷で大論争をした上で、光格天皇を断念させたこと。まさか、ここまでやっておきながら幕府の場合はOKというわけにはいかないでしょう。

 こうして周囲の不満が積もり積もって行った結果、1793(寛政5)年に松平定信は海防のために出張中に辞職を命じられます。この後しばらくは、松平信明を老中首座とした「寛政の遺老」と呼ばれている人々の体制で、緊縮財政、規律の強化といった定信路線を引き継いでいくことになります。

○水野忠成の専横

 さて、この「寛政の遺老」体制は、1817(文化14)年に松平信明が亡くなると状況が一変。徳川家斉は「待ってました!」とばかりに、お気に入りの側用人であった水野忠成を勝手掛老中首座とし、賄賂OKのやりたい放題を許します。そして、将軍自らは贅沢三昧、女狂い。なんと男28人、女27人の子が生まれたとか。子供たちは各大名家へ養子に出されたり、嫁に入れたり・・・と押し付けますが、もちろんタダで押し付けられるわけも無く、それなりの費用が発生します。

 こうして財政状況は一気に悪化していきますが、水野忠成は貨幣の改鋳を短期間で8回も行うことによって、無理やりつじつまを合わせようと試みる始末。1837(天保8)年、徳川家斉は将軍在位50年の最長記録を打ち立てた上で、息子の徳川家慶に将軍位を譲りますが、引き続き大御所として実権を握りました。

○緊迫化する諸外国との関係

 ところで、松平定信の政策のところで海防強化を紹介しましたが、いよいよ蝦夷地(北海道)の海防問題も重要課題となったことから蝦夷地取締御用掛、1802(享和2)年には蝦夷奉行(箱館奉行)が設置され、この問題に対処することになりました。*「函」館で無いことに注意。この時代は「箱」館なのです。

 そして毎年のように外国船が来航したり、北海道周辺でロシアと対峙したりと、いよいよ本格的に日本は諸外国と向き合っていかざるを得なくなり、さらに国土を守るためには自国がどのような姿になっているのか、正確な地図を作ることが求められるようになります。簡単に年表でまとめて見ましたが、こんな感じになります。

1797年 ロシア人が択捉島に上陸。
  近藤重蔵らが千島を探検。
1799年 東蝦夷地を幕府の直轄領とする。
1800年 伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年からは全国の測量を開始。
1802年 蝦夷奉行(のち箱館奉行)を設置。
1804年 ロシアのレザノフが日本からの漂流民を護送すると共に通商を要求。翌年、幕府は拒否。
1806年 文化の薪水給与令。外国船に対して飲料水、燃料の給与を認める。
1807年 ロシア人が樺太・択捉島に上陸。さらに利尻島に侵入し、幕府船を焼く。
  箱館奉行を廃止し、松前奉行を設置。蝦夷地全てを幕府直轄とする。
1808年 フェートン号事件。イギリス軍艦が長崎に入港し、薪水・食料を強要。
  間宮林蔵、樺太・沿海州を調査。
1811年 ゴローニン事件。ロシア軍艦の艦長であるゴローニンを国後で捕縛。
1812年 これに対抗し、ロシアが国後で商人・高田屋嘉兵衛を捕縛。
1813年 高田屋嘉兵衛が送還され、ゴローニンも返還される。
1817年 イギリス船が浦賀に来航。
1821年 ロシアとの緊張が緩和されたことから、蝦夷地を松前藩に還付する。
1823年 オランダ商船医師のシーボルトが長崎に着任。
1825年 異国船打払令が出される。
1828年 シーボルト事件。
1834年 水野忠邦が老中に就任する。
1837年 大塩平八郎の乱。
  徳川家慶が第12代将軍となる。
  モリソン号事件。漂流民を載せて浦賀に来航したアメリカ船を、浦賀奉行が砲撃。

 また、ロシアとの緊張関係は年表で見たとおり。特に蝦夷地については一時的に幕府直轄地とする、間宮林蔵(まみやりんぞう)が探検を行い蝦夷地や樺太(サハリン)の姿を調査(これでサハリンが大陸とはつながっておらず、離島であると判明)するなど、様々な対応策がとられました。通商要求も来ますが、これについてはNo!・・・と、この時代はまだ強硬に反対しています。

 もっともロシアだけが脅威ではありません。特に幕府首脳を驚かせたのが1808(文化5)年のフェートン号事件です。これは、単純に言えばイギリスの軍艦フェートン号が長崎で暴れた事件ですが、その背景まで見るとフランスのナポレオンがオランダを征服したことにまで端を発します。

 本国がフランスに降伏したため、もちろん世界各地にあるオランダ領も弱体化します。そこでイギリスは、「今がチャンス」というわけで東洋各地のオランダの拠点を奪おうとしていたのです。そんな状況下、「ナガサキにもオランダ船がいるらしい。捕まえてやれ!」と、はるばるやってきたそうな。船を拿捕すれば、それだけ貿易出来なくなりますからね。

 しかも、最初はオランダ国旗を掲げて長崎に入港。出島のオランダ商館員は疑うことなく出迎えますが、突如として国旗をイギリス国旗に変更。驚くオランダ商館員2名を人質にとり、当時の長崎にはオランダの船そのものは無かったため、代わりに薪水や食料を強要。

 要求が聞き入られなければ、もっと暴れるぞ!と脅しにかかります。これに対し、長崎奉行の松平康英は抗戦体制に入りますが、なんと警備を担当する佐賀藩が防衛兵力を勝手に減らしていたことが判明。これでは勝てないと、やむを得ず要求に応じ、フェートン号は長崎を去りました。しかし、松平康英は責任を取って自ら切腹しました。

 このように、日本もいよいよ大きな世界の動きに巻き込まれていくようになるのです。



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