第60回 安政の大獄と失墜する幕府の権威

○今回の年表

1858年 (4月)井伊直弼が大老に就任
  (6月)日米修好通商条約が締結。*7月にオランダ、ロシア、イギリス、9月にフランスとも締結。
  (7月)徳川斉昭、松平慶永らが謹慎を命じられる。
1859年 (9月)梅田雲兵が獄中で死去
  (10月)橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰ら死刑
1860年 (1月)勝海舟ら、咸臨丸で出発。太平洋横断しアメリカへ向かう。
  (3月)桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。
1862年 (1月)坂下門外の変。
  (4月)寺田屋事件。薩摩藩の尊皇攘夷派が粛清される。
  (7月)文久の改革。
  (8月)生麦事件。
1863年 (5月)長州藩が外国船に向けて無差別砲撃。
  (7月)薩英戦争。
  (8月)八月十八日の政変で、長州藩と七人の公卿が京都から締め出される。
  (アメリカ)リンカーン大統領による奴隷解放宣言。
1864年 (6月)池田屋事件。新選組が池田屋の尊皇攘夷派の志士を襲撃。
  (7月)禁門の変。京都に攻め込んだ長州藩が敗北する。
  (8月)幕府による第一次長州征討が発令。
  (8月)四国艦隊下関砲撃事件で、長州藩が諸外国の砲撃を受ける。
  (11月)長州藩が幕府に謝罪。
1866年 (1月)坂本龍馬、中岡慎太郎らの斡旋で、薩摩藩と長州藩が手を結ぶ(薩長同盟)。
  (6月)幕府による第二次長州征討が発令。
  (7月)将軍、徳川家茂が死去。  (11月)徳川慶喜が将軍に就任。
1867年 (10月)徳川慶喜、大政奉還を行う。
  (11月)坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される。
  (12月)王政復古の大号令。小御所会議で、徳川慶喜に辞官納地を命じる。
  (アメリカ)ロシアからアラスカを買収。

○安政の大獄

 1858(安政5)年、将軍の徳川家定が没すると、紀州藩主の徳川慶福が第14代将軍に就任。名を徳川家茂(とくがわいえもち 1846〜1866年)と改めます。当時、弱冠13歳。もちろん、自分で判断を下して幕府を率いられるような年齢では無く、大老で彦根藩主の井伊直弼が実権を握ります。



彦根城
 ここで井伊直弼について、ちょいと略歴を。
 井伊直弼は井伊直中(なおなか)の14男として彦根で生まれた人物で、「14」という数字を見てご想像のとおり、通常であれば藩主になるとは夢のまた夢。なんと32歳まで、彦根城の片隅にて明るい未来の全く見えない、ひっそりとした生活を送ってきました。ところが、ほかの兄弟が他家に養子に出された後、長兄で藩主となっていた井伊直亮が亡くなり、世継ぎがいなかったことから、彦根藩を継ぐことになりました。

 徳川家中の名門である井伊家の当主として、44歳で大老に就任した井伊直弼。
 日米修好通商条約を、「朝廷の許可なんかいるものか!」と独断で調印することを決定。そして、将軍の後継者問題で対立していた一橋派の人間を次々と弾圧。

 例えば佐倉藩主の堀田正睦、前水戸藩主の徳川斉昭、尾張藩主の徳川慶勝(1824〜83年)、越前藩主の松平慶永、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内容堂(やまうちようどう 1827〜72年)らを隠居や蟄居に追い込みます。それだけではなく、幕府(特に自分)に批判的な活動をする人間も徹底弾圧。





地図を確認! (Google マップより)
1.梅田雲浜(うめだうんぴん 1815〜59年)
 元小浜藩士で、ペリー来航後に条約締結の反対と、尊皇攘夷(そんのうじょうい)を主張し幕政を批判。獄中で病死。尊皇攘夷とはこの時期に急速的に広まった思想で、単純に言ってしまえば、天皇家を中心とする世の中にして、外国を日本から追い出そうというもの。

2.橋本左内(はしもとさない 1834〜59年)
 越前藩士で、松平慶永の側近として活躍。一橋派として徳川慶喜擁立に活動。西欧の先進技術の導入や、ロシアとの提携を訴えるなど開国派でしたが、そんなことは関係なく処刑されました。

3.吉田松陰(よしだしょういん 1830〜59年)
 長州藩士で、なんとペリーの船に乗ってアメリカに行こうとしたことも(ただし、ペリーに拒絶され実現されず)。しかし、日米修好通商条約には反対し、老中の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画。結局、賛同者が得られずに自首。江戸に送られ斬首されます。なお短期間でしたが、彼が長州藩の本拠地、萩(はぎ)にある松下村塾(しょうかそんじゅく)で育てた人材は幕末に大活躍しますが、彼が優秀と見た人物の多くは、明治を迎える前に壮絶な最期を遂げています。




松下村塾 (撮影:リン)  幕末の思想家、吉田松陰が実家の杉家の敷地内に建ててもらったもので、野山獄に幽閉されるまで約1年ほど講義の場所として使いました。ここから久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義など、幕末、明治に活躍する人物が輩出されました。
4.頼三樹三郎(らいみきさぶろう 1825〜59年)
 儒学者・頼山陽の三男で自らも儒学者。尊王攘夷の推進と一橋派として徳川慶喜擁立を朝廷に働きかけたことが、幕府の逆鱗に触れて斬首。

 代表例は彼らですが、多くの幕臣や、朝廷の公卿たちも蟄居させられ、さらに水戸藩は、孝明天皇より直接、「攘夷を実行せよ」と勅命が下され、これを錦の御旗に井伊直弼に対抗。

 「御三家といえども、これは幕府に対する挑戦だ!」と判断した井伊直弼は、水戸藩に対する弾圧は特に厳しく、家老の安島帯刀が切腹、水戸藩士の鵜飼吉左衛門が死罪に処せられるなど、多くの人間が処罰されました。当然のことながら、「井伊直弼、憎し!」となる一方、幕府に従おうとするグループと、あくまで反対するグループに分かれます。

 そんな中の1860(万延元)年3月3日、井伊直弼は江戸城の桜田門の外、要するに現在の警視庁のあたりで、水戸を脱藩した藩士たちらによって暗殺されてしまいました。これを、桜田門外の変といいます。なお、井伊直弼については開明的な人物であったと評価する声もある一方、反対派は、どんな思想があるにせよ手当たり次第弾圧した、ただの強権的な人物という評価など様々です。



現在も残る桜田門
 ただ、日本の悪い癖と申しますか、全ての罪を井伊直弼に着せる形で、幕府は彦根藩の領地を30万石から20万石へ削減。当然、「幕府の威信回復のために尽力したのに、この仕打ちは何だ!」となるわけで、後に彦根藩は幕府と戦う道を選びます。

 一方、水戸藩はこの後も藩の内部で激しい抗争が続き、1864年の天狗党の乱、さらにはその後の政権交代などに伴う報復などで、優秀な人材が次々と命を落としていきます。こうして、いち早く歴史の表舞台に出た藩でしたが、この後は大きく衰退していきます。

○咸臨丸、アメリカへ

 ところで、井伊直弼暗殺に先立つ1月19日には、木村摂津守と勝海舟が指揮する咸臨丸(かんりんまる)が、浦賀を出発しアメリカへ向けて旅立ちます。これまで幕府が養成した人材を活躍させるまたとない機会で、無事にサンフランシスコとの間を往復することに成功しました。

 勝海舟は帰国後に軍艦奉行に就任し、1864(元治1)年には神戸で神戸海軍操練所を設立。勝海舟の人柄と先見性に引かれて、反幕府的な活動をする人間も多く参加。坂本龍馬(1836〜67年)をはじめ、後の外務大臣である陸奥宗光(むつむねみつ 1844〜97年)、薩摩藩の伊東祐亨(いとうすけゆき 1843〜1914年/後に初代連合艦隊司令長官となり、日清戦争では黄海海戦の指揮を執る)などが学んでいます。


神戸海軍操練所跡の碑
 しかし幕府の保守派に危険視されてしまい、翌年に閉鎖。このため、坂本龍馬らは西郷隆盛の知己を得て、長崎で亀山社中(のち海援隊)を設立するなど、いよいよ独自の行動を次々とおこしていきます。


坂本龍馬生誕の地  土佐藩(現在の高知県)の郷士の家に生まれた坂本龍馬(*郷士とは、土佐藩の場合は関ヶ原の戦い以前に土佐を支配していた長宗我部家の旧臣に対する身分のようなもの)。友人の武市半平太らが土佐勤皇党を結成し、土佐藩を尊皇攘夷の方針にしようと政治的な活動を始めるも、坂本龍馬は途中で離脱して、土佐を脱藩します。

 そして勝海舟と出会い、その海外に対する深い知識に傾倒し、ほかの幕末の志士とは異なる道を歩み始め、日本の歴史に大きくかかわっていきます。意外にも明治になると忘れ去られ、特に戦後になって司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で爆発的な支持を受け、司馬遼太郎が作り出したイメージも大きいですが、それでも業績は色あせることはないと私は思います。

○こっちも重要な働きをしてます。

 ところで、先ほどの咸臨丸には通訳のジョン・万次郎福沢諭吉など歴史に名を残した人物も乗船していたため、こればっかりが注目されますが、実はもう1つ。

 同じ時期、ハリスの勧めによってアメリカに派遣された遣米使節団というのがあります。
 これは新見正興を正使、村垣範正を副使、小栗忠順(おぐりただまさ 1827〜68年)を目付とした使節団で、アメリカの軍艦ポーハタンで、こちらはインド、アフリカ経由でニューヨークへ。

 アメリカ議会は、この歓待のために5万ドルもの資金を使うことを議決し、彼らを熱烈に歓迎。使節団は、ホワイトハウスでブキャナン大統領に対し、日米修好通商条約批准書を手渡しました。

 この後、アメリカは南北戦争に突入し、日本を省みる余裕はなくなり、また幕府の使節団の面々も、文化の違いに驚くだけで、その本質を見抜こうとはしませんでしたが、小栗忠順のみは、次回に紹介しますが、株式会社の仕組みなど、様々な知識を会得し、幕府の近代化に取り組もうとします。

 また、1861(文久元)年には、勘定奉行兼外国奉行の竹内保徳(たけうちやすのり)らが、ヨーロッパに派遣(文久遣欧使節団)。

 福地源一郎、松木弘安(後の寺島宗則)、(再び)福沢諭吉ら、後に歴史になお残す面々も随行しています。彼らにはフランス、イギリス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルの六カ国を歴訪し、兵庫・新潟の開港と、江戸・大坂に外国人の居留を許可することが、攘夷運動の激化で厳しいため、延期を求める任務が与えられていました。

 幸いにも1863年より5年延期することに成功。そして、日本と大きく異なるヨーロッパの文化や建築に仰天しながら、日本に帰還しています。

○相次ぐ外国人襲撃事件

 さて、開国によって外国人が次々と横浜などに現れますが、これを襲う人々も出てきました。主な事件はこんな感じ。

1860年:アメリカ総領事ハリスの通訳、ヒュースケンが薩摩藩の浪士に暗殺される。
1861年:水戸藩を脱藩した14名が、品川東禅寺にあるイギリス仮公使館を襲撃(東禅寺事件
1862年:長州藩の高杉晋作久坂玄瑞(くさかげんずい)、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らが、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ち。

 後に明治政府で重きをなす井上馨も伊藤博文も、この時期は過激なことをやってくれます。



品川の土蔵相模跡  今はマンションとファミリーマートになってしまいましたが、かつての東海道・品川宿のこの場所にあった旅籠屋「相模」(土蔵のような海鼠壁を持つ建物であったため、通称「土蔵相模」)にて、高杉晋作、久坂玄瑞らは計画を練り、イギリス公使館を焼き討ちにしました。

○今度は公武合体だ!

 続いて幕府は、磐城平藩主で老中の安藤信正(あんどうのぶまさ 1820〜71年)を中心とした体制へ移行。安藤らは、幕府の権威を回復させるため、朝廷との関係改善を目指すことにし、その秘策として孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)と、将軍の徳川家茂の結婚(和宮降嫁)を実現することで、幕府と朝廷が協力する体制を作ろうと推進します(公武合体運動)。

 朝廷内でも、岩倉具視(いわくらともみ 1825〜83年)を中心に、「通商条約の破棄、攘夷の実行を実現することを条件に、この婚姻を実現させよう」と、推進します。双方共に思惑が絡む中、和宮と徳川家茂の結婚は実現しました。

 しかし、「とんでもない政略結婚だ!」と反発する人も少なくなく、1862(文久2)年、安藤信正は江戸城の坂下門付近にて襲撃されます(坂下門外の変)。幸い、負傷はしましたが逃亡には成功。しかし、幕府の威信はさらに落ち、安藤信正は失脚しました。



こちらも現存する坂下門

○寺田屋事件

 さてこの時期、薩摩藩を事実上取り仕切っていたのは、島津久光(しまづひさみつ)。彼は薩摩藩主、島津忠徳(のち島津忠義)の父親で、まもなく家老となった小松清廉(帯刀)(こまつせいれん/たてわき 1835〜70年)に加え、西郷隆盛(さいごうたかもり 1828〜77年)、大久保利通(おおくぼとしみち 1830〜78年)、海江田信義(1832〜1906年)、吉井友実(1828〜91年)など精忠組と呼ばれる尊皇攘夷派の下級武士グループの支援を受けていました。

 そして島津久光は、1862(文久2)年に軍勢を引きつれ京都に上洛。
「これは幕府をいよいよ倒すのか!」
 と多くの尊皇攘夷派の志士たちは狂喜しますが、公武合体を推進す意向だった島津久光にはそんな気はまったく無く、寺田屋に集結した自藩の尊皇攘夷派を殺します(寺田屋事件)。

 そして孝明天皇に働きかけ、公家の大原重徳(おおはらしげとみ 1801〜79年)を護衛するという名目で江戸に上洛。幕政改革を要求します。藩主でもない人間に幕政改革を突きつけられるなど、前代未聞の出来事でした。
(*島津久光は島津斉彬の弟。また、久光の息子である島津忠義が薩摩藩主です。)

 ちなみにこの寺田屋、1866(慶応2)年には坂本龍馬が伏見奉行配下に襲われる舞台となります。
 そして、現在も当時の建物が現存する・・・と長年一般には信じられ、現存する建物の内部では当時の「弾痕」「刀傷」などが紹介されていましたが、2008年になって建築登記などの書類より、明治になってからの再建であることが判明しました。


鹿児島市加治屋町の西郷隆盛生誕地  鹿児島中央駅に近い、現在の鹿児島市加治屋町。西郷隆盛をはじめ、彼の友人である大久保利通、東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌など多くの人物を輩出しています。

鹿児島城跡  薩摩藩の本拠地である鹿児島城(別名「鶴丸城」)。明治維新の原動力となった薩摩藩ですから、さぞかし立派な建物が残っているだろう・・・と思いきや、現在は石垣のみ。

○文久の改革

 さて、屈辱ながらも幕府は要求を受け入れ、次のような施策を実行します。

 1.一橋派の復帰。具体的には将軍後見職徳川(一橋)慶喜政事総裁職松平慶永(越前藩主)を任命。
   *注意:政治ではなくて、政事。
 2.過激派志士たちの活動が横行する京都の治安を回復するため、新たに京都守護職を設置し、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり 1836〜93年)を任命する。
 3.参勤交代制を緩和し、隔年交代から3年に1回へ緩和。さらに大名の妻子の帰国を許可する。
 4.洋学の研究を充実。具体的には蕃書調所を洋書調所と改め、さらに榎本武揚・西周らをオランダへ留学させる。
 5.西洋式の兵制を導入するなど、幕府軍の改革。
 6.榎本武揚(えのもとたけあき)、西周(にしあまね 1829〜97年)らをオランダに留学させる。
 これらを文久の改革といいます。



西周の生家  現在の島根県津和野町に残る西周の生家。西周は帰国後、徳川慶喜の政治顧問を務めたほか、明治になってからは貴族院議員としても活躍。また、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めたほか、福沢諭吉などとともに機関紙「明六雑誌」を発行し、西洋哲学の紹介に務めた啓蒙家、哲学者でもあります。
 ちなみに、明治の文豪で医者である森鴎外は親戚。
 さて、京都に着任した松平容保(かたもり)は、壬生浪士組(みぶろうしぐみ)、後の新選組(しんせんぐみ/新撰組)という浪士集団を活用し、この時期に多発していた、過激なテロ活動を行う過激派尊王攘夷論者らを討伐。局長の近藤勇(こんどういさみ 1834〜68年)や副長の土方歳三(ひじかたとしぞう 1835〜69年)らは大いに恐れられました。



ひの新選組まつり  東京都日野市は新選組副長の土方歳三、六番隊組長の井上源三郎の出身地。さらに局長の近藤勇や一番隊組長の沖田総司も彼らと共に、現在も残る日野宿本陣前にあった佐藤道場で剣術の腕を磨いた場所。地元も最後まで新選組を支援し続け、現在でも「新選組」とのつながりをPRしています。

壬生の八木邸  京都における新選組の屯所として使われ、今も彼らが活躍した当時の長屋門(1804年築/写真)、主屋(1809年築)が残っています。特に主屋には新選組初代局長、芹沢鴨が暗殺されたときについた刀傷が残っています。

西本願寺太鼓楼  当初は壬生に屯所を置いた新選組でしたが、隊士が増えたこともあって、後述する池田屋事件の後に西本願寺へ移転。西本願寺は長州藩との深い縁があったため、これを断ち切る一石二鳥の効果もあったとか。境内では大砲を撃ったり、射撃訓練をしたりと、僧侶たちを震え上がらせていたそうです。
 なお、明治になってから生き残りの隊士である島田魁は、西本願寺の守衛を務め、太鼓番をしていたとか。

○生麦事件

 さて、行きは寺田屋事件で派手にやった島津久光ですが、帰りも派手にやらかしてくれます。なんと、生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)にて、島津久光の大名行列を騎馬に乗って横切ったイギリス人たちを藩士たちが殺傷してしまいます。多分に、互いの文化への無理解から生じた事件でしょう。



生麦事件現場
 これに孝明天皇以下、朝廷の公家たちは大喜び。「外国人たちを排斥せよ!」の声がさらに強まり、特に攘夷を訴える長州藩の活動が活発になっていきます。1863(文久3)年には、京都へ上洛した徳川家茂に対し、「早く攘夷を実行せよ!」と強硬に迫ります。幕府は取り合えず、5月13日を攘夷決行の日と決めました。まあ、決めるだけは決めましたが、まさか誰も実行しないだろう、そう思っていたところ・・・。




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