第68回 立憲国家の成立へ
○今回の年表
1882年 | 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ。 |
大隈重信、立憲改進党を結成。 | |
集会条例を改正。 | |
壬午事変。朝鮮で反日暴動が起きる。 | |
板垣退助、後藤象二郎が渡欧し、資金の出所から批判が集まる。 | |
日本銀行が設立される。 | |
三国同盟。ドイツ、オーストリア、イタリアが同盟を結ぶ。 | |
福島事件が起こる。 | |
1883年 | 新聞紙条例が改正され、言語統制が強化。 |
1884年 | 制度取締局設置。 |
華族令が制定される。 | |
加波山事件、秩父事件など各地で暴動が頻発。 | |
清仏戦争(〜85年)。 | |
1885年 | 大阪事件。朝鮮でのクーデター計画が発覚し、大井憲太郎ら逮捕。 |
内閣制度が開始。第1次伊藤博文内閣が誕生。 | |
インド国民会議成立。 | |
1886年 | 北海道庁が設置される。 |
星亨ら、大同団結運動を提唱。 | |
イギリスがビルマ(現、ミャンマー)を併合。 | |
1887年 | 井上馨、条約改正交渉に反対を受けて外務大臣を辞任。 |
片岡健吉ら、三大事件建白書を提出。 | |
保安条例が制定。 | |
1888年 | 市制・町村制を制定。枢密院を設置。 |
1889年 | 徴兵例が改正され、国民皆兵制度の原則が確立。 |
大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法、皇室典範公布。 |
○伊藤博文、ヨーロッパへ
前々回で自由民権運動の始まりと政党の結成、前回で自由民権運動激化の要因の1つとなった松方財政を見て行きました。同じ頃の話をやっていますので、同じ話が重複して出ることもあると思いますが、年表を見ながら確認してみてください。さて、大隈重信が政府を罷免された明治十四年の政変。これに合わせて政府は、国会開設の勅諭を発信し、1890(明治23)年に国会を作ることを公約しました。そうなると、政府としても直ぐに制度設計を行わないといけません。
そこで1882(明治15)年から83年にかけて、伊藤博文らがヨーロッパを訪問し、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインに師事して、ドイツ流の憲法理論を学びます。
そして1884(明治17)年、宮中に制度取締局を設置し、伊藤博文、井上毅(いのうえ こわし 1844〜95年)、伊東巳代治(いとう みよじ 1857〜1934年)、金子堅太郎(1853〜1942年)らが中心となって、憲法制定に伴う諸制度の設計に入ります。その中で華族令が制定され、江戸時代の旧藩主や公家、さらに明治維新の功労者などを華族として、立場に応じて公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の位を授け、貴族による議会「貴族院」を設置する準備を行います。
さらに1885(明治18)年に内閣制度を創設。これにより政府は、内閣総理大臣をはじめとする各大臣が、天皇を補佐する体制に改められました。初代内閣総理大臣に就任したのは、伊藤博文です。
そして、伊藤博文など先ほどの制度取締局のメンバーは翌年、すなわち1886年から憲法草案作成に着手し、ドイツ人法学者ロエスレル(1843〜94年)の「日本帝国憲法草案」に基づいて、君主権の強いドイツ流に倣った制度設計を進めます。
○大同団結運動と鹿鳴館外交
一方同じ年、旧自由党の星亨(ほしとおる 1850〜1901年)が、大同団結運動を起こします。 これは反目し合っていた自由党と立憲改進党が、小異を捨てて大同につき、団結して国会開設に備えようとした動きです。そして翌年には三大事件建白運動を行い、2府18県の代表が、外交失策の挽回(ばんかい)、地租軽減、言論と集会の自由の3つを元老院に要求。特に問題となったのが外交分野。当時は外務大臣の井上馨が、いわゆる鹿鳴館外交を展開していました。
これは1883(明治16)年に出来た鹿鳴館という西洋風の建物で、「日本はこんなに文明開化したんだぞ」と内外に示すため、政府高官は夫人を引き連れ、外国の外交官と連日、舞踏会や仮装会などを開催。さてさて、こんなことをする目的は・・・。
そう、幕末時代に結ばれた不平等条約の改正、これが政府の悲願でした。
井上外務大臣は、鹿鳴館での外交PRを武器に、こんな条約改正を考えます。
1.批准書交換後2年以内に、外国人に日本国内を開放(内地雑居)
*要するに、外国人が日本のどこにでも住めるようにする、ということです。
2.外国人は日本の法律に従う。被告が外国人の場合は、判事(裁判官)は半数以上を外国人にする。
(治外法権の一部回復)
3.協定税率を11%に引き上げる。(関税自主権の一部回復)
4.諸法典を編さんし、英文を諸外国に通知する。
これに対して、内閣法律顧問のボアソナード(1825〜1910年)が「日本の独立に不利益である」と批判。さらに農商務大臣の谷干城が厳しく批判し、政府を辞任。この一連の対立がもれ、先ほどの三大事件建白運動につながります。
この動きに対し、1887(明治20)年、第一次伊藤内閣の内務大臣の山県有朋、警視総監の三島通庸は保安条例を出します。当初は退去条例という名称が考えられていた、実にシンプルな内容で、尾崎行雄、星亨、片岡健吉、中江兆民ら民権派51名を皇居から3里(約12km)より追放する、というものでした。
鹿鳴館(復元模型/江戸東京博物館にて)
それから1888(明治21)年、伊藤博文は枢密院(すうみついん)を設置します。
今では聴き慣れない言葉ですが、枢密院の最初の役割は、伊藤博文らの帝国憲法草案を審議することにありました。顧問官には品川弥次郎(長州)、川村純義(薩摩)、副島種臣(肥前)、土方久元(土佐)など、いわゆる薩長土肥の出身者が中心を占めたほか、勝海舟(幕臣)なども任命されました。
○地方の行政組織を整備せよ!
さらに山縣有朋などが中心となり、ドイツ人顧問のモッセの助言を受け、1888(明治21)年に市制・町村制、1890(明治23)年に府県制・郡制を制定し、地方の行政機関を整えます。ちなみに39市と1万5820の町村だったとか。その後、続々と合併などによって市の増加、町村の統合が進められます。なお、今でこそ知事や市長は県民、市民が選挙で選んでいますが、当時は府県知事は中央政府の任命、市長は内務大臣が任命されます。その他、まとめるとこんな感じ。