第72回 初の政党内閣の誕生

○はじめに

 それでは、また内閣別に見ていくことにしましょう。

▼第二次松方正義内閣(第6代総理大臣)
  1896(明治29)年9月〜1898(明治31)年1月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第二次松方内閣を参照のこと。

○主な政策

・進歩党と提携(松隈内閣=しょうわいないかく)
・八幡村に製鉄所を設立(後の官営八幡製鉄所)
・金本位制の確立

○総辞職の理由

 進歩党と対立して政権崩壊

○解説

 自由党と関係を深めた伊藤前総理に対し 、松方総理は大隈重信率いる進歩党と提携。大隈を外務大臣として、さらに自らは大蔵大臣も兼務して内閣を発足させました。1896(明治30)年3月には貨幣法を公布し、従来の銀本位制から、欧米にあわせた金本位制を確立し、欧米との経済関係を深化させました。これは清からの賠償金を金塊で受け取ることで、正貨準備に利用できるとの見込みが立ったからです。

 その後、地租増徴への賛否などを巡って松方総理と進歩党は対立。松方総理は12月25日に内閣不信任案が出されると、衆議院を解散しますが、その日のうちに政権の継続を諦めて辞職しました。

○足尾銅山鉱毒問題

 また、この1896(明治30)年には足尾銅山(現在の栃木県日光市足尾)の鉱毒問題が表面化。既に1891年より田中正造(1841〜1913年)代議士が、上流にある足尾銅山から渡良瀬川に流れる鉱毒による農業への深刻な状況を訴えていましたが、前年9月に発生した大洪水により、渡良瀬川流域の田畑や樹木まで死滅するという、深刻な公害が発生します。鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)と、これによる酸性雨などが原因です。

 3月3日に渡良瀬川流域の農民2000人が、警官の妨害を受けながらも状況。農商務省に陳情し、これを受けた政府は、榎本武揚農商務大臣が現地を視察し、足尾銅山を管理する古河鉱業(現・古河機械金属)の古河市兵衛に鉱毒排除を命令し、自らは引責辞任します。

 この鉱毒排除命令は厳しいものでしたが、鉱毒改善効果は薄く、1900(明治33)年には農民と警官隊が衝突して大量の検挙者を出す川俣事件が発生。さらに、田中正造は1901(明治34)年12月10日、明治天皇に直訴を試みますが失敗。この問題がさらに多くの人に知れわたりました。



渡良瀬川
今は緑が生い茂るようになっていますが、当時の状況は目を覆う悲惨なものだったようです。
もちろん現在でも荒廃した足尾地区の森林を復元する取り組みが続けられています。

 結局、足尾銅山が閉山になったのは1973(昭和48)年のこと。一時は東アジアを代表する銅山となり、日本の経済を支えてきたのは間違いないわけですが、その一方で鉱毒という公害で多くの人を苦しめました。今は一部が観光地となって、地元に多くの観光客を呼んでいます。



社宅
現在でも明治末期から大正初期にかけて造られた古河鉱業の社宅が、足尾には数多く残ります。

採掘の様子
足尾銅山の坑道の一部は公開され、時代ごとの採掘の様子が紹介されています。

▼第三次伊藤博文内閣(第7代総理大臣)
  1898(明治31)年1月〜6月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第三次伊藤内閣を参照のこと。

○主な政策

・特になし

○総辞職の理由

 政権運営に見通しが立たず辞職

○解説

  衆議院の解散と総辞職の両方をやった松方総理の後を受けて組閣しますが、今度は自由党も進歩党からも支持を得られません。しかも選挙の結果は自由党と進歩党の圧勝でした。そこで、伊藤総理は選挙から僅か3ヶ月で衆議院を解散しますが、なんとライバルだった自由党と進歩党が合併し、憲政党を結党。

 強力な野党の出現に、伊藤博文は自ら政党を結成しようとしますが、政府内や、元老の山縣有朋は否定的。政権運営を諦めて辞職し、後継に大隈重信もしくは板垣退助を推薦しました。



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