第73回 日露戦争

▼第一次桂太郎内閣(第11代総理大臣) 
  1901(明治34)年6月〜1906(明治39)年1月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次桂内閣を参照のこと。

○主な政策

・日英同盟協約に調印(1902年1月)
・日露戦争を実施(1904年2月〜)
・ポーツマス条約調印(1905年9月)

○総辞職の理由

 日露戦争の戦後処理が終了したため

○解説

 長州出身で陸軍大将の桂太郎が組閣した、第一次桂内閣。かなりの長期政権になりましたが、これはロシアとの戦い、日露戦争が影響しています。一方、伊藤博文は立憲政友会の総裁として政府と対峙します。

 そもそも、ロシアとの戦争を意識して発足した内閣なのですが、元々は長州出身の元老である井上馨が首相に就く予定でした。しかし、大蔵大臣に渋沢栄一、陸軍大臣に桂太郎の就任(桂の場合は続投)を求めたところ、両者から拒絶されて井上は総理就任をあっさりと辞退。

 そこで、元老会議では山縣有朋の腹心である桂太郎を総理大臣に選んだのでした。

 桂内閣の閣僚名簿を見ていただけるとわかりますが、新顔さんが多数です。たとえば外務大臣の小村寿太郎もその一人。元は宮崎の飫肥藩士(現在の日南市)で、ハーバード大学で法律を学んだ後、司法省に出仕し。大審院判事を経て1888(明治21)年外務省へ転出。以後、外交畑を歩み、日清戦争後には政務局長、外務次官、駐米、駐露、駐清公使を歴任するという経歴の持ち主です。

 それから山縣有朋の息がかかった内務省の官僚も多数入閣し、要するに後ろで山縣有朋が操っているような布陣の内閣。当時の人は、「第二流内閣」と呼びました。

○日英同盟

 まず最初に、朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(韓国)と改称したので、ここからは韓国と表記します。

 北清事変(義和団の乱)の後、ロシアは中国東北部(満州)を占領し、さらに韓国は以前に見たとおり、ロシア公使館に移って政治を行い、ロシアに韓国内の権益を与えています。ロシアが南下してくることは明白で、いよいよ本格的な対応に迫られます。このため日本では

日露協商論
ロシアの満州権益を、日本の韓国権益を認めあう(満韓交換)・・・伊藤博文、井上馨らが主張
VS
日英同盟論
イギリスと同盟を結び、ロシアと正面から対決する・・・山縣有朋、桂太郎総理、小村寿太郎外相らが主張

 のどちらにするか検討されます。ここで下図を見てください。


 横須賀市で保存されている、戦艦「三笠」の中で展示されているパネルを撮影したもので、本当に恐縮ですが、ご覧のように当時の世界は欧米列強が殆どを植民地として支配している状況。ヨーロッパ以外で独立国として保っているのは、日本とタイ、オスマン帝国、エチオピアなど僅かです。そして、このロシア帝国の強大な版図は恐ろしい。

 このロシアの拡大南下政策に対して、危機感を覚えていたのはイギリスも同様で、日清戦争、義和団の乱を経て、日本が極東における同盟相手として有効なのでは?という風潮が高まります。何しろ、中国の権益を巡ってロシアと単独で戦うのは、さすがに厳しいものがあります。

 伊藤博文は独自にロシアとの交渉を開始しますが、強気のロシアとは交渉がなかなか上手くまとまらない。そう簡単に日本が主張する満韓交換なんて認めてくれません。一方で、イギリスは日本とロシアが手を結べば、いよいよ中国に持つ権益が脅かされてしまいます。

 さらに、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世(1859〜1941年)は、従兄弟であるロシア皇帝のニコライ2世(1868〜1918年)に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘い言葉をささやき、日露戦争をけしかけ、一方でイギリスにはロシアの脅威を訴え、日英同盟の締結を側面支援。

 何でこんな外交を展開したのか。
 この時期、ロシアとフランスは露仏協商という同盟関係にあり、ドイツは両国に挟まれている状況。さらに、地図を見ていただけると解りますが、植民地も決して多いわけではありません。権益拡大のためには、ぜひ周辺国同士で潰し合ってくれると嬉しいわけです。

 その雰囲気を察した小村寿太郎外相は、一気にイギリスとの交渉を進めます。

 こうして1902(明治35)年1月30日に日英同盟が調印されました。その趣旨は
1.イギリスが清国に保有する権益、日本が清と韓国に保有する権益を他の国から侵略された場合、利益を守るための適当な措置をとる。
2.これによって他国と戦争になった場合、中立の立場をとる。
3.2国以上の戦争になった場合は、互いに助ける。(ロシアとフランスが同盟を結んでいることを意識しています)
 という相互軍事同盟でした。

 それまでイギリスは「栄光ある孤立」が基本政策で、同盟を結ばなかったのですが、外交史上大きな転換点となりました。

 それでも戦争への慎重論が強かったこともあり、政府は、小村寿太郎外相とローゼン駐日ロシア公使との間で、満州と韓国の権益交換を基本に戦争回避に向けた交渉を続けますが、1904(明治34)年2月4日に交渉打切りを決定し、2月6日にロシアに対して国交断絶を通告します。

○日露戦争の準備

 ロシアとの戦争を決定した日本でしたが、戦費は少なく、日本銀行副総裁の高橋是清(1854〜1936年)がイギリスやアメリカで、なんとか外国公債(要するに借金)を調達してきた状態。日本がロシアに負けてしまえば、価値が暴落するだけに、好条件を上乗せするなど、相当な苦労があったようです。

 さらに物資も豊富ではありませんから、短期決戦で打撃を与え、有利な状態で一気に交渉に持ち込むことが期待されます。そこで、伊藤博文は腹心の金子堅太郎(1853〜1942年)をアメリカに派遣。金子とハーバード大学で同門で交流のあった、セオドア・ルーズベルト大統領(1858〜1919年)との交渉をはじめとする、対米交渉を水面下で開始し、将来の日本とロシアの講和の斡旋を依頼するのでした。

 実は植民地競争に出遅れたアメリカも、機会均等などを列強にもとめて清への進出を狙っている国でした。ロシアの南下は歓迎すべきことではなく、日本としては「我々はロシアとは違いますよ」と、その安全性(?)をアピールすることで、アメリカから好意的な感触を引き出すことが、金子の役割だったわけです。

 ちなみに金子堅太郎は、大日本帝国憲法起草の回でも、起草者の一人として登場しましたね。
 余談になりますが、同じ長州出身の元老でも、山縣有朋が長州出身の軍関係者を引き立て、また内務官僚を子飼いにしたのに対し、伊藤は出身地や所属組織にとらわれず幅広い人脈と、臨機応変に人材を活用。

 もう一人の長州出身の元老、井上馨の場合は長く外交畑を歩む一方、西郷隆盛からは「三井の番頭さん」と馬鹿にされるも、経済問題に精通していたことから実業界の発展に寄与。特に、渋沢栄一(1840〜1931年)には何かと支援を行い、渋沢は日本資本主義の父と呼ばれるほど、今の日本を支える企業を多数設立しました。

 藩閥政治と呼ばれますが、主要3人の中でも意外と立ち位置は異なるんですね。
 おっと、話がずれました。

 では、次のページから日露戦争の流れを見ていきましょう。



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