第74回 桂園時代

○はじめに

 何はともあれロシアの脅威を退け、着々と韓国の支配、満州の権益確保と拡大路線に成功した第一次桂内閣ですが、ポーツマス条約への不満から国民から激しい抗議に遭い、とうとう総辞職を余儀なくされました。代わって、立憲政友会総裁で公家出身・貴族院議員の西園寺公望(1849〜1940年)が内閣を組閣。この後、桂、西園寺、桂、西園寺と時期を見計らって互いに首相を譲る状態が続き、第一次桂内閣時代も含めて桂園時代と呼ばれます。

▼第一次西園寺公望内閣(第12代総理大臣) 
  1906(明治39)年1月〜1908(明治41)年7月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次西園寺内閣を参照のこと。

○主な政策

・日本社会党の公認
・鉄道国有化
・南満州鉄道株式会社の設立
・旅順に関東都督府を設置
  ・・・関東州(大連・旅順などの遼東半島南端部にあった日本の租借地)の管轄と満鉄の保護を行う。
・日仏協約、第一次日露協約に調印
・第三次日韓協約の締結

○総辞職の理由

 山縣有朋が社会主義者の取り締まりの手ぬるさを天皇に訴え、天皇より西園寺首相に督促されたため

○解説

 日露戦争中に桂太郎と交わされた約束により、戦争時に立憲政友会が議会で協力する見返りとして、伊藤系の西園寺公望が次の首相に内定。そして第一次西園寺内閣が発足しますが、立憲政友会からは原敬(1856〜1921年)が内務大臣として、松田正久が司法大臣として入閣したのみ。

 山縣有朋や桂太郎との力関係に苦しみつつ政権運営を行い、また若い頃にパリに留学した経験から、自由の空気を吸っていた西園寺首相は、当時危険視された日本社会党も公認しますが、最後は政友会の勢力拡大を恐れた山縣有朋により、その社会主義取締りの不徹底を天皇に訴えられ、西園寺は政権を投げ出してしまいました。

 では、個別に政策を見て行きましょう。まずは・・・ついに鉄道について熱く語りたいと思います(笑)。

○鉄道国有化

 これは日本の主要な鉄道路線を国有化するという法律。

 現在、日本の長距離路線の多くは、国鉄の流れを汲むJRによって運営されています。山手線も、東海道線も、中央線も、東北本線も、常磐線も、函館本線も、山陽本線も、鹿児島本線も、み〜んなJRですね。そろそろ知らない世代も出てきていると思いますが、1987(昭和62)年3月までJRは国鉄(日本国有鉄道)という、国の組織が運営していました。

 ところが明治初期、西南戦争で多額の資金を要したため、鉄道建設にお金が足りない。目標は全国に鉄道ネットワークを形成することですが、国単独ではいつまで経っても完成の見通しが無かったんですね。じゃあ、民間にやらせてしまえ!

 というわけで、日本鉄道(上野〜青森/現在の東北本線、品川〜赤羽/現在の山手線・埼京線の一部、日暮里〜岩沼/現在のJR常磐線)などを皮切りに、次々に鉄道会社が誕生していきました。

 しかし、軍事用の列車を私鉄に走らせようとすると、外国人株主に情報が漏れてしまう可能性もある。また、各鉄道会社を経由するとダイヤの作成も大変です。そこで長らく鉄道の国有化が議論され、日露戦争を契機にようやく鉄道国有化への機運が高まり、実現に至ったものです。それでも加藤高明外務大臣が抗議して辞任するなど、反発も強いものでした。

 ちなみにこの時に国有化されたのは、17社4500kmの路線。日本鉄道のほかに、甲武鉄道(御茶ノ水〜八王子/現在のJR中央線)、山陽鉄道(神戸〜下関/現在のJR山陽本線)や、九州鉄道(門司〜八代など/現在のJR鹿児島本線や九州各線)なども国有化されました。

 なお、太平洋戦争中の1944(昭和19)年にも22社が国有化され、現在のJRネットワークを形成することになります。


7100形蒸気機関車 7101号機「弁慶」【鉄道記念物】
 1880(明治13)年、北海道初の鉄道路線である幌内鉄道の手宮〜札幌が開業するのに伴い、アメリカから輸入した8両の蒸気機関車のうちの1両。アメリカンスタイルのデザインが特徴です。

デ963形電車 デ968
 日本初の電車のうちの1両。1904(明治37)年に甲武鉄道(現、JR中央線)飯田町〜中野で電車運転を始めたときに投入された車両で、当時はハ9号と呼ばれていました。 鉄道院(後の国鉄)や松本電鉄(現・アルピコ交通)を経て、大宮の鉄道博物館に収蔵されています。

九州鉄道本社(現・九州鉄道記念館)
 1891(明治24)年に建てられた九州鉄道の本社は、今も門司で現存。同社は福岡、熊本、大分、佐賀、長崎の大半の鉄道路線を経営しており、まさに現在のJR九州の基礎を作っています。

山陽ホテル
 1902(明治35)年に建てられた日本初のステーションホテル(上写真の建物は、1923(大正12)年に辰野葛西建築事務所の設計で再建)。山陽鉄道の下関駅(現在のJR下関駅とは場所が異なります)は、大陸へ向かう海の玄関口として人で賑わい、皇族や政府高官も必ず山陽ホテルに宿泊しました。

 なお、上写真の建物は老朽化により2011(平成23)年3月に解体されました。下関の発展を語るに欠かせない建物でしたが、いささか外観が地味すぎましたか・・・。

 ちなみに現在のJRに至るまでの歴史は、大まかに書くとこんな感じです(一部は省略)。
 ・1871年:工部省鉄道寮(のち工部省鉄道局)
            ↓
 ・1890年:鉄道庁(内務省の外局)
            ↓
 ・1907(明治40)年:帝国鉄道庁
            ↓
 ・1908(明治41)年:鉄道院
            ↓
 ・1934(大正9)年:鉄道省
            ↓
 ・1959(昭和24)年:日本国有鉄道
            ↓
 ・1987(昭和62)年:日本旅客鉄道(JRグループ)・・・国鉄を地方ごと&貨物会社に分割民営化

○南満州鉄道株式会社の設立

 さて日露戦争の結果、日本はロシアより東清鉄道など南満州における鉄道利権を獲得しました。

 そこで1906(明治39)年、後藤新平(1857〜1929年)を初代総裁に、2億円のうち政府と民間が半額ずつ出資して南満州鉄道(満鉄)を設立。満州での開発を進めます(鉄道とその沿線の開発から得る利益ってのは大きいんです。また満州から産出する石炭などの資源の貨物輸送も担います)。

 さらにロシア時代の制度を継承して、南満州鉄道附属地(満鉄附属地)という、自社の所有地では行政権まで行使する権利を持っていました。これにより、学校や消防なども満鉄は整備しました。

 さて、そんな利権の宝庫である南満州鉄道。
 実は満鉄設立の前年、第一次桂内閣の時代にアメリカの鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマン(1848〜1909年)が来日し、1億円の出資と引き換えに対等の権利を持つという覚書(桂・ハリマン協定)をしていたのですが、小村寿太郎外相が反対し、日本単独で満鉄を設立します。

 さらに1909(明治42)年にアメリカは南満州鉄道の中立化を求めますが、翌年に小村寿太郎外相(第二次桂内閣)はこれを拒否。「何のためにロシアを追い出すのに協力してやったのか!」と次第に、日本を敵視するようになっていきます。しかも当時のアメリカは日本からの移民労働者が急増し、日本人排斥運動が起こっている状態・・・。

 それだけ満州の利益は日本にとって重要なもので、アメリカなどに乗っ取られてたまるか!ということだったのですが、表現は悪いですけどアメリカと共犯関係にならず、関係が極度に悪化していったことが、アメリカとの戦争に繋がった要因の1つとなりました。

 


旧・南満州鉄道本社
現在も大連鉄道有限責任公司として、鉄道施設として使用される満鉄の本社。
ちなみにこの建物、元々はロシア帝国が商業学校として建築した建物です。

旧・奉天駅(現・瀋陽駅)
 1910(明治43)年に太田毅の設計で建築。東京駅のような「辰野式」のレンガ造りとなった奉天駅は、満鉄最大規模を誇る駅舎。満鉄は、日本がこの地域を本格的に占領する前から、奉天駅周辺に鉄道附属地を設定し、独占的に大開発を行っていきます。これによって、奉天城にいる中国側に威圧感を与え、実質的な占領政策を推進していくのでした。

○ハーグ密使事件

 鉄道について熱く語れて大満足です(笑)。
 さて、着々と韓国の保護国化を進める日本でしたが、韓国の皇帝である高宗は何とか反撃に出ようと、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送り、欧米列強に対して日本の侵略を訴えます。ところが、そもそも欧米列強自体が世界各地を植民地化していますし、日本の韓国権益も認めているので、まるで相手にされませんでした。義憤は理解できますが、当時の世界情勢を全く把握していないと言えます。

 しかも、この動きは日本側にバレバレでして、韓国統監の伊藤博文と、韓国の総理大臣である李完用(イ・ワニョン 1856〜1926年)は激怒。既に第二次日韓協約で日本の同意無しに外交権を行使できないにもかかわらず、こそこそと反日活動をするというのは、どういうことだ!と強く迫ります。とうとう高宗は退位を余儀なくされ、長男の純宗(1874〜1926年)が即位。

 さらに第三次日韓協約が結ばれ、とうとう内政権も日本に剥奪され、軍隊も解散させられました。
 これ以後、本格的に日本に対する抵抗運動が激化し、義兵と称する者が相次ぎました。


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