第75回 第一次世界大戦

▼第一次山本権兵衛内閣(第16代総理大臣) 
  1913(大正2)年2月〜1914(大正3)年4月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次山本内閣を参照のこと。

○主な政策

・軍部大臣現役武官制を改正

○総辞職の理由

 贈賄事件であるシーメンス事件が起こり、総辞職

○解説

 陸軍出身の桂首相が辞職した後、今度は海軍大将の山本権兵衛(薩摩出身)が内閣総理大臣に。あれほど「憲政擁護・閥族打破」と訴えていたにもかかわらず、立憲政友会はあっさりと山本内閣の与党に。尾崎行雄は怒って離党しましたが、政友会の中心メンバーである原敬が内務大臣として入閣したほか、陸軍大臣、海軍大臣以外は全て政友会のメンバーがポストを得るという、実質的な政友会の内閣でした。

 そして山本内閣は、第二次西園寺内閣が倒れるきっかけとなった軍部大臣現役武官制を改正し、「現役に限る」という規定を削除。退役した人間でもOKにするよう改めました。山本自身が出身の海軍を抑え、当時の陸軍大臣が陸軍の反対を押し切ったことが、大きな原動力になりました。

 ところが贈賄事件であるシーメンス事件が発生。1月22日付のロンドン発のロイター通信が、ドイツのシーメンス社が日本海軍の高官に贈賄したと報道。折りしも議会では海軍の増強と増税の予算が審議されていたことから、立憲同志会の島田三郎(1852〜1923年)がこの問題を追及。さらに取り調べが進むにつれ、日露戦争終結後に軍艦「金剛」を発注した際、イギリスのビッカーズ社から三井物産を通じて海軍高官に賄賂があったことが判明。予算は不成立となり、山本内閣は総辞職しました。

▼第二次大隈重信内閣(第17代総理大臣) 
  1914(大正3)年4月〜1916(大正5)年10月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第二次大隈内閣を参照のこと。

○主な政策

・第一次世界大戦に参戦
・対華21ヶ条要求を提出

○総辞職の理由

 露骨な選挙干渉への反発と貴族院の対立

○解説

 一時は徳川第17代当主で貴族院議長の徳川家達(とくがわいえさと 1863〜1940年)を次の総理大臣に、という話も出ましたが、徳川一族の会議の結果、これを固辞することに。そのため、政界を引退して早稲田大学の経営に専念していた大隈重信が組閣することになり、政界復帰。

 かつて大隈が組織した憲政党は既にありませんが、亡き桂太郎が立ち上げた立憲同志会(加藤高明など)、中正会(尾崎行雄など)や、大隈を個人的に支持する議員たちを与党にしました。その大隈内閣に早速大きな事件が舞い込んで来ました。第一次世界大戦です。

○第一次世界大戦

 第一次世界大戦は、1914年〜1918年に主にヨーロッパを舞台に起こった戦争で、32カ国が二大陣営に分かれて戦うという、人類史上類を見ない大規模な戦争になったものです。日本史の原稿で延々と第一次世界大戦について書くのも、ヨーロッパ史の原稿と重複しますので、ザックリと行きたいと思います。

 まず戦争に至る直接のきっかけは、バルカン半島におけるオーストリア・ハンガリー二重帝国と、この地域で急速に勢力を拡大したセルビアとの対立激化にあります。そんな中、オーストリアの帝位後継者だったフランツ=フェルディナント大公夫妻は、陸軍大演習を視察するために、ボスニア州都サラエヴォに来ていました。

 もちろん、陸軍の大演習ということは、この地域にオーストリアの力を示そうと狙っていたもの。その頂点に君臨する予定のフランツ=フェルディナント大公ですから、彼の考えがどういうものであったか、よく解ると思います。

 それは当然、「我が祖国、セルビアを脅かそうとしているな」と、1人のセルビア人青年を暗殺者に変えました。その人物の名はプリンツィプといいます。1914年6月28日、彼はサラエヴォ市庁舎を出て、車で移動する大公夫妻を暗殺することに成功しました。

 当然、オーストリアは激怒します。
 「セルビア政府がこの事件の首謀者だ。この事件の捜査を、セルビア領地内で好きにやらせてもらう。いいな!」
 と、詰め寄ります。そんなこと、セルビアには認められるはずがありません。断固拒否です。こうして、7月28日、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦布告します。そして、各国は同盟関係に基づいて、オーストリア支持、セルビア支持に分かれて戦うことになるのです。

○戦いの構図


 まずは、対立の構図から。
○同盟国側
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブルガリア
    VS
○連合国側
イギリス、フランス、ロシア、日本、ポルトガル、イタリア、セルビア、ギリシャ、ルーマニアなど

○中立
オランダ、ベルギー、スペイン、ノルウェー、デンマーク、
スウェーデン、スイス、アルバニア

 さあ、それでは流れを見ていきますよ。
 まず1914年6月28日に、サラエヴォ事件が起こったのは前述の通り。そして7月26日、イギリス外相グレーは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国大使会談による危機回避を提案しましたが、ドイツは拒否し、2日後、オーストリアがセルビアに宣戦布告して戦いがスタートします。

 さらに8月1日に、ドイツがフランスとロシアに宣戦を布告し、さらに8月4日、ドイツ軍は中立国だったベルギー侵入。そのまま北フランスに攻撃を開始すると、同じ日にイギリスはドイツに対して宣戦布告します。そして、同月23日、大隈重信内閣率いる日本は、ドイツに対して宣戦布告します。

 それからしばらく後の1915年5月23日、領土を巡ってオーストリア、オスマン=トルコなどと対立していたイタリアが、同盟関係を解消してオーストリアに対して宣戦布告し、さらに戦いは泥沼化していきます。

○漁夫の利を狙い東アジアへ進出


 大隈内閣の加藤高明外務大臣は、「これは欧米列強がアジアに目を向けられないうちに、日本の権益を拡大するチャンスだ」と考えます。

 そして、あくまで日英同盟を前面に出し、中国の山東半島に軍を上陸。ドイツの東洋艦隊の拠点である中国の青島(チンタオ)を攻略することに成功します。東京では勝利を祝う提灯行列が行われました。

 なお、この戦いで初めて日本軍の飛行機が偵察と爆撃に使用され、またヨーロッパでも飛行機や戦車、さらには毒ガスも使用されるようになるなど、従来とは大きく異なる兵器が本格的に使用されています。



ソッピース 11/2ストラッター
 1915年にイギリスの航空機会社ソッピース社が誕生させた高性能戦闘機。ストラットのサスペンションの配置が奇妙なことからこのようなユニークな名前が生まれた。(写真:イギリス RAF博物館/撮影:秩父路号)

ソッピース パップ
 こちらも第一次世界大戦で使用されたイギリスの単座複葉戦闘機。日本でも導入されて、後のシベリア出兵などでも使用されています。(写真:イギリス RAF博物館/撮影:秩父路号)

○対華21か条の要求

 アジアでの存在感を世界に示した日本は、外務省、軍部や財界の中国に対する要求をまとめ、翌1915(大正4)年1月18日に中国の袁世凱大総統に対して、21か条からなる要求書を手渡し、速やかな受託を求めます。主な内容としては、
 1.山東省におけるドイツの権益を日本が継承する
 2.旅順・大連と満鉄の租借期限延長
 3.南満州と内モンゴル東部の日本の権益強化
 4.中国沿岸の港湾や島嶼(とうしょ)を他国に割譲しないこと
 5.中国政府に日本人の政治、財政、軍事顧問を招くこと
 などなど。当然、袁世凱は激怒して中国世論も日本に対して猛反発。交渉が進展しない中、日本は日本人顧問を招く要求は取り下げた上で、軍事力を背景に最後通牒(通告)を出します。そして5月9日に袁世凱はこれを受諾しました。

 しかし中国ではこの5月9日を国恥記念日と決め、毎年のようにこの日にデモや集会を開き、反日世論が高まっていくのでした。一方、袁世凱は袁世凱で自身の野望をさらに突き進み、ついに1916年1月1日に皇帝に即位。これには猛反発が起こり、各地で中央政府からの独立が宣言されて、中国は分裂状態に陥ります。さすがに袁世凱は3月に皇帝即位を取り消しますが、とき既に遅く、そして6月6日に失意のうちに亡くなりました。

○政友会の大敗

 さて、日本が戦勝に沸く中で、大隈内閣は山縣有朋系の官僚や軍部の要求であった2個師団増設や軍艦建造案を国会に提出。これが政友会や国民党の反対で否決されるや、衆議院を解散。

 大隈重信の人気と、早稲田大学による人脈のフル活用、さらには人気が高い大隈首相が閣僚と共に鉄道に乗って全国の駅で遊説。これに加えて、大隈首相&尾崎行雄法務大臣の演説レコードを配る、有権者全員に電報を打って支持を呼びかけるなど、メディア戦術も展開。

 さらに大浦内務大臣による買収工作など選挙妨害も露骨に行って、与党の立憲同志会が153議席と圧勝したほか、大隈首相を支持する中正会が53議席、政府系無所属議員が58議席と、全381議席の過半数を。政友会は72議席も減らして108議席にも落ち込み、第1党の座から転落します。

 しかし露骨な選挙干渉は、その後に国民からの批判を受けるようになり、さらに袁世凱の帝位即位で荒れる中国に対し、積極的な便乗を行わない大隈首相に反発するグループも現れ、大隈首相の自動車に爆弾を投げつけられるという嫌がらせも受けます。さらに、二個師団増設問題が可決すると、貴族院は手のひらを返したように大隈首相に対して予算案で抵抗するなど、内閣潰しにかかります。そして1916(大正5)年10月1日に大隈内閣は総辞職しました。

 時に大隈首相、78歳という高齢でした。



東京駅の誕生  1914年、手狭になった新橋駅に代わって新しい交通の拠点として東京駅(中央停車場)が誕生しました。
 設計は辰野金吾で、大隈首相は「太陽のようだ」と式典で絶賛。第二次世界大戦で大きな被害を受け、屋根部分が改変されて長らく使用されてきましたが、現在復元作業が進んでいます。写真は鉄道博物館に展示されている模型。

▼寺内正毅内閣(第18代総理大臣) 
  1916(大正5)年10月〜1918(大正7)年9月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:寺内内閣を参照のこと。

○主な政策

・シベリア出兵
・中国の北京政権(段祺瑞政権)への支援(西原借款)
・米騒動への対応

○総辞職の理由

 米騒動への反発が大きく、政権運営が出来なくなったため

○解説

 大隈前首相は、後継に加藤高明を推薦しますが、元老の山縣有朋はこれを拒否。山縣と同じく長州出身で、元帥陸軍大将、朝鮮総督の寺内正毅(てらうちまさたけ 1852〜1919年)を推薦し、組閣命令が出ました。政党嫌いの山縣の意向を反映し、山縣の力が及ばない海軍大臣以外は、全て山縣系の官僚で固めるという、政党を排除した久しぶりの超然内閣です。

 そして前政権の与党である立憲同志会は、中正会、公友倶楽部と合同して憲政会を結成(総裁は加藤高明で、尾崎行雄や若槻禮次郎、濱口雄幸、河野広中などが参加)して寺内内閣に対抗。衆議院の過半数を制する大きな政党になりましたが、翌年の選挙では原敬を総裁とする立憲政友会に第一党の座を譲り渡し敗北します。

 そして寺内内閣は立憲政友会と立憲国民党(メンバーは犬養毅ら)が与党となり、政局の安定が図られました。

○西原借款

 さて、中国では袁世凱が死去すると北京政府(当時の中国は軍閥が割拠したり、孫文が再び立ち上がるなど、分裂状態にあるため、こう呼ばれます)は段祺瑞(だん きずい 1865〜1936年)が国務総理に就任して権力を継承しました。そして寺内内閣は、この段祺瑞に対して資金を貸与して、支援。もちろん、金で段政権を思い通り操り、権益を確保しようという狙いです。

 仲介したのは実業家の西原亀三(1873〜1954年)で、総額1億4500万円という当時としては巨額の資金。通称「西原借款」と呼ばれます。段祺瑞は、この資金を利用して北京政府の維持に努めますが、1920年に内紛が起きて政権が崩壊。この西原借款は、見事に回収不可能となり、大きな財政負担となってしまったのでした。

○シベリア出兵

 さて、第一次世界大戦はまだ続いており、1917年1月9日にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言。警告無しで、敵国と思われる船舶は何でも潜水艦で撃沈するという、なりふり構わぬ作戦を開始します。そこでイギリスは、日本にも海軍のヨーロッパ(地中海)派遣を要請。日本は了解し、特務艦隊を派遣して駆逐艦でドイツの潜水艦と交戦し、大きな戦果を上げました。

 このドイツの行為に怒ったのが、アメリカ合衆国。それまで戦いにはノータッチだったのですが、ついにアメリカのウィルソン大統領がドイツに対して宣戦布告。いよいよ大国が動き出し、ドイツにとって不利な状況になります。

 その一方、連合国側のロシアではでは戦争に疲弊し、1917年3月に首都で反乱がおこり、これに軍隊も同調します。これを、二月革命といいます。ニコライ2世は革命を鎮圧できず、3月に退位。ニコライ2世のロマノフ王朝は倒れ臨時政府が誕生。

 その政府も、間もなく社会主義者のレーニン率いるボリシェヴィキと呼ばれるグループに打倒され、1917年11月7日、世界初の社会主義国家が誕生しました。いわゆる、ソヴィエト連邦の成立です。ソ連は、ドイツと講和し戦線から離脱しました。

 ・・・と、前置きが長くなりましたが。
 こんな状況のロシア、改めソ連に対して、寺内内閣は1918年1月12日、居留民保護を名目にロシア東部、シベリアのウラジオストックに軍艦2隻を派遣。シベリア出兵の始まりです。この後、社会主義政権を恐れるアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダも参加。そして8月に政府は正式にシベリア出兵を宣言し、本格的に介入を開始します。

 欧米各国は1920年に世論の反発で撤退しますが、日本は続く原内閣、高橋内閣の1925年まで出兵し続け(シベリアからは1922年に撤退し、北カラフトに出兵し続けた)、約10億円の戦費と、3000人の戦死者を出し、何も得るものが無く終わりました。

○米騒動

 そして、このシベリア出兵に伴い全国の米業者が、「これは米が必要になる。商売のチャンスだ!」と米の買占めに走ります。折りしも、人口の急増で米不足であったこともあり、米価が急上昇!!主食である米が食べられなくなると、ついに1918年8月に、富山県中新川郡西水橋町(現在は富山市の一部)で、数百名の漁民の妻が米屋や資本家に対して決起!
「米を安く売れ!県外に持っていくんじゃない!」
 と押しかけ、これを新聞報道で越中女一揆と伝えられると、全国で暴動が発生しました。

 そして、なんと軍隊が全国で約10万人も動員され、検挙者は約2万5000人も出ますが、これに対して寺内内閣を打倒する声が大きく高まり、とうとう寺内首相は総辞職しました。

日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
コトバンク(朝日新聞社) http://kotobank.jp/
玉名市役所ホームページ 金栗四三 

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