第77回 平民宰相、原敬の登場

▼原敬内閣(第19代総理大臣) 
  1918(大正7)年9月〜1921(大正10)年11月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:原内閣を参照のこと。

○主な政策

・陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚を、政友会員として初の本格的政党内閣を組織
・寺内内閣の対中方針を転換し、段政権への援助を中止
・国防の充実、教育施設の改善、産業の奨励、交通機関の整備を4大政策として予算措置
・小選挙区制の導入と、納税資格を3円に引き下げ
・第1回の国勢調査を実施(1920年10月1日実施)

○総辞職の理由

 原首相が東京駅で暗殺されたため

○解説

 寺内内閣崩壊後、とうとう元老の山縣有朋も後任の首相選びに苦労することになります。そのため、政党出身者としては一目置いていた立憲政友会総裁、原敬に内閣の組閣が命ぜられます。原敬は盛岡藩(南部藩)の重臣の二男で、爵位を持ない初めての首相として「平民宰相」として、民衆から熱狂的な支持を集めました。

 その一方、原首相は(納税制限の無い)普通選挙を求める声には答えませんでした。

 1919(大正8)年に選挙法を改正して、小選挙区制を導入すると共に、有権者の納税義務を直接国税10円から3円に引き下げます。これによって有権者数が146万人から286万人に増加しました。・・・全国レベルで考えれば微々たるもの。しかも、都市部での増加数は10万人。政友会の政策は基本的にバラバキでして、財界と農村の有力者が支持基盤でした。

 これに対し、1920(大正9)年2月11日、東京の上野公園や日比谷公園などで数万人が、普通選挙の実現と治安警察法の廃止を求めてデモを行いました。治安警察法というのは、1900(明治33)年に第2次山縣内閣が成立させたもので、社会主義や農民運動の弾圧を目的に、集会・結社・言論などの政治活動の制限、労働者の団結権・ストライキ権の制限などを規定したものです。

 日々高まる普通選挙実現の声に対して、原首相は「時期尚早だ!」として衆議院を解散します。
 そして同年5月10日に行われた第14回総選挙において、政友会は278議席を獲得して圧勝。憲政会は110議席、国民党は29議席を獲得しました。要するに現状の支持基盤と政友会はよく合っていたわけで、これ以上の有権者拡大をする必要性が無い。しかも社会主義が蔓延して、既存政党は負けてしまうかもしれない、という思惑があったわけです。

 さらに貴族院にも政友会の支持基盤を拡大する一方で、軍事費を手厚くするなど、元老の山縣有朋や軍部への配慮は欠かせません。

 その一方で、第一次世界大戦後の経済不振や、政友会関係者の贈賄事件が発覚し、政財界の癒着が問題化しました。こうした中、1921(大正10)年11月4日、原首相は東京駅の改札口にて、山手線大塚駅に勤務する中岡艮一(こんいち)という19歳の青年によって、暗殺されてしまいました。政友会の近畿大会が開催される、京都に向かう途中でした。

○吉野作造と美濃部達吉

 ところで、この時代の政治思想に大きな影響を与えたのが、吉野作造と美濃部達吉です。
 東京帝国大学助教授の吉野作造(1878〜1933年)は、1916(大正5)年1月の雑誌「中央公論」1月号などにおいて、民本主義を唱えました。

 すなわち、英語のデモクラシーというのは、民本主義(国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし)、民主主義(国家の主権は法理上人民に在り)の2つの日本語訳がある。(君主国である)日本は民本主義の立場から、政策の決定は一般民衆の立場に立つべきで、普通選挙、言論の自由、政党内閣制が必要だ、というものです。

 これに対して、主権在民の考えが徹底されていない(つまり、もっと国民主権に踏み込め!)という批判も、山川均(1880〜1958年)ら社会主義者などから出ましたが、吉野作造の民本主義は東大内はもちろん、知識人たちの圧倒的な支持を得て、いわゆる大正デモクラシーの底流となります。

 それから、もう少し前にご紹介するべきでしたが、東京帝国大学教授の美濃部達吉(みのべたつきち 1873〜1948年)の天皇機関説も幅広い支持を集め、大正デモクラシーの底流となりました。これは、1912(大正元)年に公刊された「憲法講話」で述べたもので、主権の主体は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関であるとする、というものです。

 ものすごく大雑把に言ってしまえば、天皇も日本という国家機関の1つだよ、という話で、至極当たり前の話なので、当時も一部が猛反発した以外は、至極当然の憲法のお話として読まれたんですけど、これが時代が下ると、大問題になります。これについては、またそのときにご紹介しましょう。

○3・1独立運動と、5・4運動

 さて原内閣時代の、1919(大正8)年3月1日に朝鮮の京城(現在のソウル)で日本に対する大規模な独立運動が発生し、さらに全土へ広がります。これは、第1次世界大戦が終結後に、アメリカのウィルソン大統領が民族自決(民族のことは、その民族が決定する)という方針を発表したものに刺激され、特に韓国併合以後に政治的、経済的に日本支配が強まっていたことに対する怒りが爆発したものです。これを、3・1独立運動といいます。

 これに対し、日本は軍を出動して暴動を鎮圧しようとし、さらにそれが反発に拍車をかける・・・ような状況で、朝鮮側に多数の死者を出しました。総督府の発表では5万人以上の死傷者があったそうです。このため、日本も朝鮮の統治方針の見直しを余儀なくされ、憲兵警察を廃止し、普通警察を設置するなど、強権的な政治手法の緩和を始めました。

 一方、同じ年の5月4日は中国の北京で、北京大学の学生らが大規模な日本に対するデモを行います(5・4運動)。これは、既に21か条の要求に対する不満が高まっていたことに加えて、4月30日のパリ講和会議の中で、欧米列強が日本に対して、ドイツが中国の山東省に持っていた権益を受け継ぐことが承認されたことが火に油を注いだものです。

 そして運動は学生のみならず労働者など一般市民にも広がり、日本製品のボイコットなどやストライキも行われました。

▼高橋是清内閣(第20代総理大臣) 
  1921(大正10)年11月〜1922(大正11)年6月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:高橋内閣を参照のこと。

○主な政策

・ワシントン会議に参加し、ワシントン海軍軍縮条約、四カ国条約、九カ国条約に調印

○総辞職の理由

 予算案を巡って閣内不統一のため



高橋是清(江戸東京たてもの園にて)

○解説

 それまで政友会を引っ張ってきた原敬を突如として失い、政友会は大物政治家の群雄割拠状態となりました。元老の中には西園寺公望を後継の首相に押す声もありましたが、西園寺は原内閣の大蔵大臣であった高橋是清を推薦し、まもなく交渉が開始されるワシントン会議への対応をさせることにしました。

 こうして高橋是清が政友会総裁、そして内閣総理大臣となります。しかし、高橋是清は政友会の党員としては在籍期間が短く、党内基盤をあまり持っていません。そのため、あっという間に閣内で意見の内紛が起こり、退陣を余儀なくされました。

○ワシントン会議

 さて、そんな高橋内閣ですがワシントン会議で重要な条約を次々と調印しました。

 ワシントン会議というのは、アメリカの提案で開催されたもので、ベルギー、中国、フランス、イギリス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガル、アメリカの9カ国が集まった国際会議です。世界的に海軍の軍縮を行い、またアジア地域の利害関係の調整を目的としていました。日本側の首席全権を勤めたのは海軍大臣の加藤友三郎(1861〜1923年)、駐アメリカ日本国大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう 1872〜1951年)、徳川家達(とくがわいえさと 1860〜1940年)の3人です。

 まずはワシントン海軍軍縮条約
 当時の日本は欧米と海軍力の軍拡競争を展開中だったのですが、アメリカとしては日本の海軍力を低下させたい。一方、日本も国家財政を考えると、際限の無い競争は避けたい。ある意味で思惑は一致していました。こうして交渉の結果、1万トン以上の主力艦の総トン数の割り当てを米5・英5・日3・仏1.7・伊1.7の比率に制限することで合意。

 「アメリカとの緊張関係を避けること、総トン数で国防力が決まるわけではなく、総合的な国力のほうが重要」と柔軟に考えており、建造中の戦艦「陸奥」を廃艦リストから外すことで妥協し、この条約に調印することになりました。

 それから太平洋地域の安定を目的に、日英同盟という二国間の同盟を破棄し、代わりにアメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国条約が結ばれ、太平洋における各国領土の権益を保障することが取り決められました。

 最後に九カ国条約では、中国に対する領土保全と門戸開放政策が取り決められました。門戸開放というのは、中国との貿易がすべての国に開こうというもの。さらに中国の関税自主権が保障された上、山東省からの日本の撤兵が決められました。

 ワシントン会議によって形成された、アジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼びます。
 しかし長くは続かず、泥沼の太平洋戦争に突入することになるのですが・・・。

▼加藤友三郎内閣(第21代総理大臣) 
  1922(大正11)年6月〜1923(大正12)年9月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:加藤友三郎内閣を参照のこと。

○主な政策

・海軍と陸軍の軍縮を実施
・シベリアからの撤兵を完了
・石井ランシング協定を破棄

○総辞職の理由

 加藤友三郎首相が大腸がんで死去したため

○解説

 広島藩の下級藩士の3男として生まれた加藤友三郎。海軍軍人として日清戦争、日露戦争に参戦し、連合艦隊参謀長として、東郷平八郎司令長官を補佐しました。また、寺内内閣以降は海軍大臣として歴代内閣に在籍します。

 さて、原首相、高橋首相と政党の人間が首相になるのが慣例になるのかと思いきや、今度は海軍大将の加藤友三郎が首相となりました。これは、元老の松方正義と西園寺公望が後継の首相に、第1候補として加藤友三郎、第2候補として憲政会の加藤高明を考えていることが判明し、政友会としては「憲政会が政権を取るのだけは阻止する」と、加藤友三郎を強烈にプッシュしたことがあります。

 ちなみに元老の山縣有朋は、1922(大正11)年2月に亡くなっています。

 さて、加藤友三郎首相は任期中に大腸がんで死去したために、1年ちょっとの短命の政権になりましたが(もっとも、長期政権を探すほうが大変ですが・・・)、軍事力の削減と国際協調の流れを着実に実行します。まず、ワシントン軍縮海軍条約に基づいて海軍の軍縮を実行。これに呼応する形で、陸軍も軍縮を実行することになり、部隊や人員の削減を行いました。

 さらに寺内内閣の時代に行われた後、なかなか撤兵が完了しなかったシベリアから軍を引き上げます。

 そしてアメリカの要請に基づき、中国での特殊権益を認めた石井ランシング協定を破棄し、九ヶ国条約での取り決めを着実に実行することを確認しました。

 ワシントン条約に基づく軍縮は、軟弱だと反発する声もありましたが、加藤友三郎首相は海軍大臣時代より、長期的な国家の利益を踏まえた大局的な視点から政治力を発揮したと言えるでしょう。なかなか知名度の低い首相ですが、高く評価されるべきでは?と個人的に思います。

 で、加藤友三郎首相が亡くなり、後継の首相を選んでいる最中に関東大震災が発生します。
 これについては次回、ご紹介するとしましょう。

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