第79回 昭和の始まりと金融恐慌

▼第1次若槻禮次郎内閣(第25代総理大臣)
  1926(大正15)年1月〜1927(昭和2)年4月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第1次若槻内閣を参照のこと。

○主な政策

・新たな元号を昭和とする。
・金融恐慌を招く
・中国に対して内政不干渉

○総辞職の理由

 台湾銀行を救済する緊急勅令案発布を枢密院に図ったが、否決されたため

○解説

 松江藩(島根県)出身の若槻首相は、大蔵省で官僚を務めた後に貴族院議員に転進。第3次桂内閣、第2次大隈内閣で大蔵大臣を務め、そして前の加藤高明内閣で内務大臣を務めて普通選挙法の制定などにかかわりました。そして加藤高明首相が急死すると、首相の座に就くことになります。

 ちなみに、禮は「れい」とよみ、礼の旧字体です。

○大正の終わりと昭和の始まり

 1926(大正15)年12月15日、大正天皇が神奈川県にある葉山の御用邸で、48歳の若さで逝去されました。
 そして、26歳の皇太子裕仁が即位。若槻内閣は、新たな年号を「昭和」とします。これは、中国の書物である「書経」の「堯典」(ぎょうてん)の1節である、百姓昭明、万邦協和から採ったもので、政府は「天皇を中心に国民がまとまり、世界中の国々が協調していく」ことを意味する、としまいた。
 その願いとは裏腹に、日本はいよいよ泥沼の戦争に突入し、さらに世界は第2次世界大戦と向き合うことになります。

○金融恐慌

 憲政会を与党とする第一次若槻内閣が、昭和の始まりと同時に直面したのが金融恐慌です。
 第一次世界大戦時の好景気で、企業は設備投資を強化しましたが、戦争が終結すると需要が激減。様々な企業が負債を抱え、それはお金を貸している銀行に跳ね返ってきます。これに加えて、関東大震災の被害処理のために発行された震災手形も不良債権化。金融が不安定になります。

 そこで若槻内閣は震災手形関係2法案を国会に提出し、この成立で金融業界を安定させようとします。  ところがそんな中、1927(昭和2)年3月14日、片岡直温蔵相(かたおかなおはる 1859〜1934年)は衆議院予算委員会で、野党の政友会が「不良銀行の名前と、震災手形の所有金額を出せ!」と執拗な追求を受けているうちに、「東京渡辺銀行が破綻した」と答弁してしまいます。

 実際のところ東京渡辺銀行は休業一歩寸前で踏みとどまっていたのですが、片岡蔵相の発言がすぐさま報道されると、これを機会に翌日に休業を決定。そうしますと、
「銀行が休業?俺が預けている預金は大丈夫なのかよ!今すぐ引き出さないと。」
 と、金融業界全体への不安から人々はパニックに陥り、預金を引き出そうと銀行に殺到します。これを、取り付け騒ぎといいます。しかし、銀行もみんなの預金を大事に金庫に入れているわけでなく、実際に色々なところで運用していますから、手元に丸々あるわけではありません。一斉に預金を引き出されると、手持ちのお金が足りなくなってしまうのです。

 このため、他の東京の6銀行までも休業を決定。大変な騒ぎになりますが、政府は日本銀行から各銀行へ4億円余りの非常貸し出しで対応し、議会で震災手形前後処理法案が通過したこともあり、何とか3月末には騒動は沈静化します。

 しかし翌月に第2派の金融恐慌が来ます。

 今度は鈴木商店という第一次世界大戦で事業を大幅に拡大した会社の資金繰りが悪化。ここにお金を貸していた台湾銀行の業績も悪化し、台湾銀行にお金を短期貸付していた大銀行が資金の回収にかかります。その台湾銀行は、鈴木商店との新規融資をやめることにします。このため、4月5日に鈴木商店が取引中止を発表。

 若槻内閣は再び訪れた金融恐慌に対応するため、台湾銀行の救済緊急勅令案を出そうとします。勅令(ちょくれい)というのは国会が定める法律ではなく、天皇が出す命令のこと。国会の審議を待っていられなかったのですが、4月17日に枢密院で否決。そのまま若槻内閣は総辞職を選びました。金融恐慌の対応は、立憲政友会に政権交代し、次の田中内閣に引き継がれることになります。

○なんで否決?

 ・・・枢密院の行動は、若槻内閣の幣原喜重郎外務大臣が中国の混乱に対して不干渉政策を貫き、さらに幣原外務大臣が前の加藤高明内閣のとき、ソ連との間に日ソ基本条約を結んで国交を樹立するなど、穏健な外交(幣原外交)であったことに対する反発があったとか。これに野党の立憲政友会が結びつき、若槻内閣の倒閣を図ったものです。

 特に1927(昭和2)年3月24日に、中国の南京で国民革命軍(中国国民党の軍隊)と思われる軍隊に日本とイギリスの領事館が襲撃され、略奪暴行を加えられた事件(南京事件)に際し、若槻内閣が中国派兵をしなかったことは、良い攻撃材料になりました。

 そして台湾銀行の救済緊急勅令案を枢密院で審議する際、枢密院顧問官の伊藤巳代治(いとうみよじ/憲法制定の時に名前が出ましたね)は、この幣原外交を軟弱外交だと激しく批難。本題とは全く違う話で救済緊急勅令案は否決され、前述のとおり若槻内閣は総辞職に追い込まれたのでした。

○アパートの誕生

 1926(大正15)年8月6日、東京の本所区向島中之郷(現・墨田区押上二丁目)に、財団法人「同潤会」による3階建ての鉄筋コンクリートによるアパートが誕生しました。
 これは関東大震災後に住宅が不足したことから、いよいよ一軒家ではなくアパート(集合住宅)を普及させようと手がけられたもので、現在のアパートやマンションの先駆けの1つです。木造家屋が密集している状態の改良も目指しています。





同潤会猿江裏町不良住宅地区模型 (江戸東京博物館にて)
同潤会の住宅改良事業を端的に模型で表したもの。ただマンションを造るだけでなく、社会問題の解決も目指しました。  同潤会のアパートが注目されたのは、何と言っても設備が最新だったこと。電気、ガスはもちろん、水洗便所、屋上物干場、調理台と米びつなどを完備した「文化台所」がでした。1930(昭和五)年に完成した大塚女子アパートに至ってはエレベーター、談話室、音楽室、サンルームなども整備されています。マンションによって多少の差異はありますが、特徴をまとめるとこんな感じ。

 ・耐火・耐震構造に強いRC造アパート。
  今のアパートの基本構造の最初です。
 ・和室・洋室どちらも選択可能。
  ただし、ダニの温床になる畳はRC床の上にコルクを貼り、保温、弾性を持たせ、その上に薄縁を二重に敷く。
 ・流し台、ガスコンロ台をはじめとして調理台、ダストシュート、米櫃、炭櫃まで備えつけ。
 ・水洗トイレの完備
 ・共同食堂を造り、住民同士のコミュニケーション向上を図る。
 ・子供の遊び場を作る
 ・暖房の完備(後期建築より)

 2000年代に入ると、いよいよ各地の同潤会アパートは老朽化により取り壊され、上野にある上野下アパートメントを最後に全て解体されました。唯一、表参道ヒルズに建て変わった青山アパートメントは、改築にあわせて1棟が外観復元されており、表参道に面した景観を今に伝えています。


青山アパートメント(2002年11月撮影)
店舗として利用されていたところもあり、一部は窓などが改造されて使われていました。


表参道ヒルズ
現在は1棟が復元されて、表参道の景観を継承しています。



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