第87回 吉田内閣の時代

▼第一次吉田茂内閣(第45代総理大臣) 
  1946(昭和21)年5月〜1947(昭和22)5月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次吉田内閣を参照のこと。

○主な政策

・第2次農地改革(46年10月)
・日本国憲法公布(46年11月)
・ニ・一ゼネストに中止命令(47年1月)
・裁判所法の公布(47年2月)
・教育基本法・学校教育法公布(47年3月)
・労働基準法、独占禁止法公布
・日本国憲法施行(47年5月)

○総辞職の理由

 衆議院議員総選挙で、野党の日本社会党が比較第1党になったため

○政党の動き

1947年3月8日・・・協同民主党と国民党が合同 → 国民協同党が結党(書記長:三木武夫)。
             衆議院78人で第四党に。
1947年3月31日・・・進歩党に、自由党と国民協同党の離党者が加わり民主党が結党(委員長:芦田均)。
             衆議院145名で第一党に。

○解説

 衆議院議員総選挙の結果、鳩山一郎の日本自由党が第一党となり、鳩山首相が誕生する予定でした。ところが、GHQの指令によって公職追放となってしまい、代わって幣原内閣で外務大臣を務めた吉田茂(1878〜1967年)が日本自由党の総裁となり、内閣を組閣することになりました。

 さて、ちょっと吉田首相のプロフィールを見てみましょう。
 戦後の首相の中でも特に強いインパクトを与えた吉田首相は、高知県宿毛出身の自由党の志士、竹内綱の5男として東京に生まれ、3歳のときに横浜の貿易商である吉田健三の養子となります。そして、吉田健三が40歳の若さで没すると多額の遺産を相続します。そして、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外交官領事官試験に合格。外交畑を歩みます。

 さらに吉田茂は、大久保利通の次男である牧野伸顕(まきののぶあき 1861〜1949年 農商務大臣や枢密院顧問官などを歴任)の長女である雪子(せつこ)と結婚。1928(昭和3)年に外務次官、さらにイタリア大使、次いでイギリス大使に就任します。そして1920(昭和45)年4月という、戦争末期に吉田茂は憲兵隊によって捕まってしまいます。

 これは、牧野伸顕と共に和平工作を行おうとしていたからでした。ちなみに牧野は当時、新英米派の巨頭として見られており、二・二六事件で襲撃を受け、孫娘(吉田茂の娘)の吉田和子(のち麻生和子)の機転により命を取り留めています。

 こうしたことが逆に幸いし、戦後にGHQから白羽の矢が立つ要因の1つとなったのでした。

○日本国憲法の公布

 さて、マッカーサーを司令官とするGHQは、幣原内閣発足に前後して新しい憲法の作成を指示。これに対し設置された憲法問題調査委員会は、大日本帝国憲法の大枠は変えない、つまり天皇が統治する体制を最大限確保した上での修正案を作っていました。ところが、これを毎日新聞がスクープ。

 ・・・情報管理はどうなっているんだ、という話ではありますが、ともあれ1946年2月1日に修正案を見たマッカーサーは「こりゃあかん。GHQが介入する必要がある」と方針を転換し、民政局にマッカーサー3原則(天皇制の民主化・戦争放棄・封建制の廃止)を示し、新たな憲法案の作成を開始します。

 そして2月12日には民生局が新憲法の案を完成させ、日本側に引き渡します。そして議会での審議等で若干の修正も加えるなど最終調整を行い、第1次吉田内閣が11月3日に日本国憲法として公布しました(施行は翌年5月3日)。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を3本柱としています。ちなみに、施行と共に貴族院は無くなり、代わって国民が選挙で選んだ議員による参議院が誕生します。

 では、改めて大日本帝国憲法と、日本国憲法の相違を見ましょう。

大日本帝国憲法   日本国憲法
君主主権 主権 国民主権
統帥権を総攬(そうらん、要するに掌握する)神聖不可侵の元首。前述のように天皇大権を定める。 天皇について 日本国と日本国民統合の象徴。政治上の権力を持たない。
各国務大臣は天皇に任命され、天皇を輔弼し、天皇に対して責任を負う 内閣について 国会に対して責任を負う議院内閣制。
国会は天皇が立法権を行使するときの協賛機関。貴族院と衆議院の二院制で、両院は対等の関係(予算は衆議院が先に審議)。

衆議院議員は国民(臣民)が選挙で選ぶが、選挙権には各種制約あり。
国会と選挙 国会は国権の最高機関。
衆議院と参議院の二院制
衆議院が優位

国民による普通選挙
「臣民」としての権利。法律の範囲内でのみ保障される。 国民について 基本的人権、民主的権利を保障
国民に兵役義務
統帥権の独立
軍隊について 戦争を放棄。
陸海空軍その他の戦力を保持しない。
天皇に発議権 憲法改正について 国会が発議し、国民投票

 なお、日本国憲法の前文にはこう書かれています。憲法の理念を端的に表すものとして、非常にわかりやすいですね。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

○司法組織の再編成

 この日本国憲法内の規定と、裁判所法の公布によって、日本の司法組織は大きく変わりました。
 これまで大審院の下に、控訴院、地方裁判所、区裁判所を配していたのを改め、最高裁判所の下に高等裁判所地方裁判所簡易裁判所を設けました。このうち最高裁判所が従来の大審院にあたりますが、最高裁判所は違憲審査制における法令審査権を持ち、法律が憲法に違反するか否か判断する権力を持つのが、大審院との最大の違いです。このため、「憲法の番人」とも呼ばれます。



現在の最高裁判所
 ちなみに家庭裁判所は1949(昭和24)年に設置。地方裁判所と管轄区域を共通とし、夫婦や親子などの家庭に関する事件(家事事件)の審判および調停、20歳未満の少年のおこした犯罪などの事件(少年事件)の調査・審判を担当します。

○農地改革

 さてGHQの指示によって、幣原内閣の時代(1945年12月)に農地調整法の改正(第1次農地改革)が、第1次吉田内閣の時代(1946年10月)に農地調整法の改正に加えて自作農創設特別措置法が公布され(第2次農地改革)、1950(昭和25)年にかけて農地改革が実施されました。

 これは明治時代以降、日本の農業は生活が困窮した農民や小地主で土地を手ばなす者が増え、大地主が小作人に土地を貸しつけ、地代としての小作料収入を得るというスタイル(寄生地主制)が盛んになり、農地が特定の地主に集まるようになり、小作人は実質的に低賃金の労働者となって働き、農村が疲弊。

 こうした農村の構造は、日本の軍国主義の一因にもなったとGHQは考え、農地改革を指示しました。内容については、まとめるとこんな感じになります。
 
第1次農地改革   第2次農地改革
農地調整法の改正 法律 農地調整法の改正
自作農創設特別措置法
小作地保有を認めない 不在地主の小作地保有 小作地保有を認めない
隣接市町村在住者も対象。5町歩以内までは小作地保有OK。 在村地主の小作地保有 農地のある市町村在住者のみ対象。1町歩(北海道は4町歩)までは小作地保有OK。
個人単位 面積計算単位 家族単位
無し 自作農保有制限 3町歩(北海道は12町歩)
地主・小作人の協議 土地の譲渡の方法 国家が買収し、小作人に売り渡す
地主・自作・小作各5名 農地委員会 地主3名・自作2名・小作5名
金納(物納もOK) 小作料 金納(ただし、田地25%、畑地15%が最高限度)

 ごらんのように、第2次農地改革に比べると、第1次は甘いもので、GHQが「地主制が温存されるじゃないか」と非難。こうして練り直されたのが第2次農地改革でした。これによって、寄生地主制は解体され(ただし、山林は対象外とされて山林地主は残存)、小作農は格安で農地を手に入れられました。

 この結果、自作農が全農家の55%に達し、小作地として残ったのは田の14%、畑の12%になりました。
 1955(昭和30)年には米の生産量が史上最大となり、目出度し目出度し・・・。といきたいところですが、地主さんからみれば「国が事実上、強制で土地を取り上げるなんて酷い!」という話で、多くの人が没落してしまいます。さらに土地は細分化されて小作人に譲り渡され、農業の大規模化が難しくなる問題の一端となり、未だに尾を引いています。

○ニ・一ゼネスト

 さて、GHQは日本の民主化に役立つと、労働組合の結成が奨励するようになり、その上部団体としては1946(昭和23)年8月に全日本産業別労働組合会議(略して産別会議)と、日本労働組合総同盟(略して総同盟)が結成されました。前者は共産党系、後者は社会党系の組織です。

 この2つは互いに分裂や結合を繰り返しながら、現在の日本労働組合総連合会(連合)、全国労働組合総連合(全労連)、全国労働組合連絡協議会(全労協)の3つにつながっています。

 *労働組合とは?
 労働条件、賃金、雇用などの問題を一人ひとりがバラバラに会社に要求しても、なかなか改善には結びつきません。それに、一人で会社に要求するのはとても勇気がいることです。労働組合があれば、職場のさまざまな問題を会社側と対等な立場で交渉する権利が保障されるのです。

 労働組合の権利は憲法で保障されています。誰でも労働組合をつくれますし、加入することができます。また憲法で保障されている「労働三権」(団結権、団体交渉権、団体行動権)は、NPOや市民団体などには認められておらず、労働組合のみに与えられている権利です。
(連合ホームページより)

 さて、こうした中で早速ですが経営者と労働者の対立は激化し、ストライキ、サボタージュなどの争議が多発。

 ストライキ:労働者が労働条件の改善・維持などの要求を貫徹するため、集団的に仕事をすることを拒否すること。
 サボタージュ:作業を継続するが、共同して作業速度を意識的におとし、使用者に打撃をあたえる。

 これに対して政府と産業界では、1946(昭和23)年夏に、国鉄で7万5000人、海運業界で6万人という大量解雇を発表。こうした中、官公庁の組合では賃上げ要求を打ち出し、産別会議と総同盟の共闘により、1947(昭和22)年2月1日に、数百万人参加のゼネラル・ストライキが計画されますが(二・一ゼネスト)、連合国軍最高司令官マッカーサーの命令で中止にさせられました。

 当初は、日本の民主化のためにはしっかりとした労働組合運動が必要だと考えていたアメリカでしたが、この時代は中国共産党が勢力を拡大。さらにアメリカとソ連の対立を背景に、日本に対する占領政策を転換。アジアにおいて、共産主義国化を防ぐ防波堤にしようと考えていたのです。

 *ゼネラルストライキとは?
 全国の全産業、または同一地域・同一産業の労働者が統一要求を掲げて一斉に行うストライキのことです。

 少なくとも役人が仕事サボってストライキしたら国民生活に大きな悪影響が出るでしょう、というわけで1948(昭和23)年7月、マッカーサーは公務員のスト権と団体交渉権の剥奪(はくだつ)を指示して実行に移されました(代わりに人事院が官民間の給与格差の是正を勧告するようになります)。

 しかし、その後も政治的な思惑も絡んで労働組合運動は激化していき、労働組合と共産党の犯行と発表された、列車転覆事件(下山事件、三鷹事件、松川事件)など不審な事件も多発します(事件の真相は未だに不明です)。

○教育基本法・学校教育法公布

 この時期には、アメリカ教育施設段の報告書を元に、学校教育も大きく見直されました。1947(昭和22)年には教育基本法学校教育法が制定。義務教育は従来の6年(尋常小学校)から9年(小学校6年・中学校3年)に延長。さらに、高等学校3年、大学4年の六・三・三・四制の新学制がスタート。

 さらに社会科の新設、国定教科書の廃止、教育委員会の設置、軍国主義教育の是正などが行われています。

 ちなみに教育基本法、まさに文字通り教育に関する基本となる法律で、学校教育の方針が定められています。その特徴は、憲法と同じく前文を設けており、その理念を書き記していることです。
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 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。  我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
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 一方で学校教育法は、学制の仕組みや制度など、諸手続きなどを定めた法律です。




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