歴史研究所日本史・世界史レポート
第2(5)回 真珠湾攻撃!! 担当:馬藤炊爺<裏辺研究所生物課>

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5.奇襲者はこう語る 淵田美津夫<真珠湾奇襲攻撃当時の攻撃飛行隊 総指揮官(中佐)。真珠湾に関する文献を集める。>

 ○真珠湾作戦は、長年にわたって研究され、演錬されていたわけではない。だからこそ奇襲作戦としてあれほどの成功を収めた。しかし、功罪となると政治、戦争どちらをとっても日本にとってマイナスで、アメリカにとってはプラスだった。

○真珠湾攻撃によって戦闘の主力が戦艦から飛行機に移ったのをアメリカ海軍は悟り、たてなおした。日本はその主力を戦艦とみなし、それを大事にし続け、ミッドウエイ作戦でその無意味に気がつかなかった。作戦思想のおくれとともに、航空機などという手軽な兵器が量でものをいうというところに、アメリカ側の量産で負けた原因があると思う。

○政治的には、この奇襲はルーズベルト大統領にとって、参戦の口実になったことだ。 当時のアメリカ国内は足並みがそろっていなかった。その時に日本は真珠湾を奇襲した。アメリカ太平洋艦隊は打撃を与えられ約3000人の将兵が死んでしまった。大統領 はこの日を「屈辱の日」と名付け、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」というスローガンが掲げられ。アメリカ国民は戦争の道へと結束した。、

○ルーズベルトは、ナチスドイツが全ヨーロッパを手中にすることをおそれた。そのためにナチスドイツと戦いたかったが、アメリカ国民を戦争へと結束させる必要があった 。しかし、ナチスドイツはアメリカ国民がそうなるようなことはしなかった。そこで、その同盟国の日本の敵になろうとした。日本の敵はすなわちドイツの敵である。

○アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していた。ルーずベルトは真珠湾の奇襲を知っていたが、そのまま現地の将軍には知らせず、そのままにしていた。そして、真珠湾は奇襲を受けて、アメリカ国民は戦争の道へとつき進んだ。

6.真珠湾攻撃の思惑と影響  ○ 山本五十六(日本海軍の司令官長)は、開戦反対の立場であったが、アメリカと戦うのであれば開戦冒頭の真珠湾攻撃が不可欠との信念で、真珠湾攻撃を指揮した。太平洋戦争は始めてはならない戦争であったが、開戦するからには、真珠湾攻撃はやむを得ない攻撃であったといえる。実際、その後戦況はしばらくの間日本側有利に働いた。

 ○ 日本の戦争指導者は、ヨーロッパの戦いでドイツが勝利を収めると思い、開戦した。その上、成功が危ぶまれていた真珠湾攻撃が大戦果を挙げた。彼らは「戦争に勝った」という空疎な自信を持ってしまった。やがてこの慢心が、戦争体制確立の遅れと作戦の慎重さの欠如をもたらす。日本国民も、「アメリカ恐るるに足らず」と考えるようになり、その後状況が不利になると落胆するようになった。

 ○ 日本が侵攻する南方地域では、マレーシア、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)の人々は、真珠湾攻撃によって黄色人種が白色人種を痛めつけたという事実に、自分たちも白色人種からの支配から独立できるのではないかとの希望を持った。これら非圧迫民族の人々は、日本軍をはじめは解放軍として迎えた。しかし、日本軍が物資を搾取し、独立保証をせず、民族を圧迫したので反感を買われることになった。
 
 また、アメリカの植民地となっていたフィリピンでは、アメリカからの独立をすでに約束されており、事情型の地域とは異なった。

 ○ アメリカ海軍は、真珠湾のショックによって「突然変異」を起こし、効率的な航空機中心の戦法を採用する幸運をつかんだ。他方、日本海軍は、世界で初めて空母の集中運用を採用して効果を挙げたにもかかわらず、飛行機でなく戦艦重視の思想が継続した。この意味においては真珠湾攻撃はその後の日本の戦いにとってマイナス要因であったといえる。

7.「ライシャワーの日本史」 エドヴィン・O・ライシャワー(元:在日米大使館大使)より
 1904年の日露戦争と同じ戦術(開戦と同時に奇襲する)を使い、1942年12月8日の月曜日未明、日本は真珠湾奇襲攻撃に大成功を収め、開戦した。この一撃で、アメリカ海軍は戦艦の大部分を失ったが、空母は無傷のまま残り、その後の戦闘で戦艦よりも重要な役割を持つことを証明した。この奇襲によって、東南アジアとオーストラリアの北部の諸島は簡単に占領されてしまった。日本にとって軍事的に大成功だったが、ヨーロッパとアジアへの戦争の参戦をめぐって二分されていたアメリカ世論が憤慨し結束を固めた。アメリカは、日本とドイツを叩き潰すべく、決然たる覚悟を決めた。

・・・開戦前夜
 日本は運命をかけた苦しい決断に迫られていた。アメリカの要求どおり軍を撤退させ、大幅に譲歩して日中戦争を終わらせる。そうすれば日本はヨーロッパの戦争から経済的利益を手に入れることができる。

 当時、一時的にとはいえ、アジアと切り離されたヨーロッパの工業力は落ち込み、壊滅する危機に直面していた。
 しかし軍部にしてみれば中国からの撤退は国の面目の喪失に他ならないので容認できなかった。侵略による軍部の経済安定策は、国民から失敗と思われ、軍部に対する心証が変わるのは必至で、軍部による政治的支配を危うくする。また、アメリカは1931年以来日本が侵略によって得た領土を全て放棄しない限り、話し合いには応じられないという非現実的な主張を止めなかった。日本が譲歩するのが先決で、条件はその後になって初めて考えようという訳である。

 苦しい立場の日本にとっての選択は、南進(東南アジアへの侵略)の道を選び、東南アジアの資源を確保することで厳しくなる一方の経済封鎖に対抗することであった。特にオランダ領東インドの石油がねらいで、そうすれば鳴り物入りの(侵略肯定のためのスローガン)大東亜共栄圏を達成できる。このためには日本とは比較にならないほど強大な経済大国アメリカ合衆国と戦わねばならない。しかしヨーロッパの敵、ドイツが無傷なので太平洋に大量の兵力を集中する訳にはいかないと思われた。ドイツとアメリカの戦いはアメリカを疲弊させ、中国を屈服させるだけの時間を日本に与えてくれることになると思われた。

  近衛文麿以下の日本の文官はどうにかして米政府と妥協の道を求めて懸命の努力を払ったがアメリカ側の頑ななまでに道義的な姿勢にぶつかるばかりだった。1941年の夏から秋にかけて軍部は勝利の公算は大きいとみた。そして従来なかったような大人口を擁し、恐らくはもっとも豊かな一大帝国が出現するというのが彼らの目論見であった。しかし日本の軍部は人間がらみの方程式では大きな間違いを犯した。日本民族(なるもの)の道徳的優越性、つまりは「大和魂」を大げさに買いかぶる一方で欧米の、特にアメリカの民主主義は大敗し、平和論に偏りすぎていると勝手に思い込んでいた。あまりの贅沢に民主主義は堕落し、アメリカには長期戦を戦う意志などなく、特に日本が緒戦で勝ちつづければ、代償が高くつくことを知って戦意を失うに決まっていると、決めてかかっていた。

8.「アメリカの歴史D大恐慌から超大国へ」著:メアリー他より 対日貿易の停止

○アメリカ大統領ル−ズベルトは、ドイツ撃退に力を注ぎたいと考えており、アジア地域には関与を避けたがっていた。日本・ドイツ・イタリアが同盟を結ぶと、航空燃料とくず鉄の対日輸出を禁止した。しかし、彼は死活問題であろうと日本が考えるだろうと石油は禁止しなかった。日本が南方へ侵攻したため、石油輸出も禁止し、合衆国内の日本国籍を持つ人々の資産を凍結したのだと思われる。

○1941年秋のアメリカの世論調査では、日本の侵略を止めるため戦争も辞さないとアメリカ国民の多くは思っていたようだが、ル−ズベルトはまだヨ−ロッパのナチス=ドイツ対策を重要視していた。しかし、彼をはじめ、アメリカも、日本もアジアで妥協するつもりはなかった。日本は、アジアにおける覇権である大東亜共栄圏の構想も練っていた。
  
 ○日本政府は近衛首相とル−ズベルト大統領のトップ会談を望んだが、合衆国はそれを拒否した。アメリカは、まず日本が中国の主権と領土保全を尊重し、日本が中国から撤退することが先決だと強調した。また三国同盟から脱退するべきだとも伝えた。

○ル−ズベルトは太平洋側のアメリカの防衛能力を増し、ヨ−ロッパでドイツ・イタリアの侵攻を止める時間を稼ぎたかった。閣僚達に、「これ以上、危機的状況を深めるような行動はとらないようにしよう。」と語り、日米間の交渉を引き延ばそうとした。しかし、アメリカは日本の暗号を解読し、石油の輸出禁止が解かれない場合、日本が対米戦争を考えていることを知る。

○ル−ズベルトは「相手がしかけるまで、我々は待たなくてはならない。」と言った。合衆国は日本が先制攻撃をするようにしむけた。「アメリカ国民の全面的な支持が得られるし、誰の目にも侵略者が誰であるかがはっきりわかるからだった。」

9.まとめ ○戦争が長引けば、勝機はないと考えていた日本はハワイの真珠湾を急襲した。ルーズベルトは自慢の海軍が奇襲でやられたことに落胆した。緊張の何週間の後、安堵を感じていたル−ズベルトは故意にハワイの艦隊を無防備にし、戦争を誘発させたわけではなかった。真珠湾の基地は警戒態勢に入っていなかった。警告メッセ−ジは民間の電信会社によって伝えられたため、その到着が遅れた。司令官もハワイが日本から離れており、全面攻撃の対象になるとは思ってもみなかった。当時英国領だったマレ−シア・あるいはタイ・フィリピンを攻撃してくるだろうと予想していたのだ。

○12月8日「悪評とともに語りつがれる日」と奇襲の日を呼んだル−ズベルトは、 日本に対する宣戦布告を議会に要求した。ほとんどすべての議員が賛成し、アメリカは戦争を開始した。

○ドイツとイタリアはアメリカに宣戦を布告した。一方チャーチル(イギリスの首相) はこのアメリカの参戦を見て喜んだ。彼の回顧録には「これでヒトラーもおしまいだ。ムッソリーニの命運も尽きた。日本も粉砕されるだろう。私はベッドに入り、感謝と救われた気分で眠りについた。」とある。

○戦争は世界規模で行われ、アメリカ独自の協調主義経済的非軍事的手段などによる平和追求の考え方は、この時代にあっては色あせた。アメリカをヨ−ロッパの紛争から遮断するための法も改定され廃棄された。ルーズベルトは世界大戦に国を巻き込みたくなかったが、連合国を助け日本の侵略を阻止したかった。

○アメリカに国際問題に関わっている経済的・戦略的利益があり、海外においても自らアメリカの手で守りたかった。彼は枢軸国は西欧文明全体に対する脅威だとも感じていた。アメリカ人一般にも常に自分で正しい方向へ持っていきたいという欲望があった。

 以上で真珠湾攻撃についてのレポートを終わる。
 なお、この問題に関しては様々な意見や資料があり、この原稿を読んで「それはおかしい」「私の意見とは違う」と思われた人もいるかもしれないが、それは当然のことであることを付記しておきたい。

所長より 「真珠湾攻撃」に関する本の勧め
 新井喜美夫著「日米開戦の真実」〜パール・ハーバーの陰謀〜 講談社+α新書 840円

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