第6回 対馬を支配した宗氏

●はじめに


 今回のネタは、対馬を支配した宗氏についてです。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵・侵略の時に講和交渉したり、江戸時代、朝鮮通信使が来るときに接待したりした、あの宗氏です。

1.宗氏の発祥

 宗氏というのは、元々太宰府の官人で、それが後に武士化したものです。当時の本拠は筑前の宗像(むなかた)郡。で、さらにそのルーツをたどれば、惟宗(これむね)氏で、江戸時代、公式には平氏一族の平知盛を祖とするとしています(惟宗という姓は平氏系に多い)。 で、この惟宗氏が対馬守護・地頭の少弐氏の代官としてしだいに島での実権をにぎり、モンゴル襲来の際には宗資国(すけくに)が戦死しています。大河ドラマ「時宗」でもふれられました。この頃には、姓を「宗」にしております。

 次に、宗貞茂(?〜1418年)という人物が倭寇を鎮圧したことで朝鮮から対日貿易の窓口として保護されます。ちなみに彼はその前に、対馬を支配していた宗家の支流を倒し、対馬を宗家の本拠とします。

 そして1443(嘉吉3)年、息子の宗貞盛は朝鮮と嘉吉条約をむすんでほぼ貿易を独占することに成功。

 倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれる宗氏が非常に役に立ったようです。これが、朝鮮とのつながり。貞盛はまた、朝鮮に渡航する際には宗氏の発行する許可証を必要とさせる文引制度を作り、ますます対朝鮮関係の窓口として勢力を拡大します。

 ちなみに宗貞茂・貞盛の頃は九州にも領地があり、主家の少弐氏と共に、周防の国を支配した大内家と抗争し、残念ながら敗北。九州内の領土を失います。

2.豊臣・徳川政権下での宗氏

 宗義智(よしとし)の時、豊臣秀吉が九州を平定すると、これに帰順します。そして、秀吉が朝鮮を侵略した際に、先頭を切って戦う一方、講和交渉に奔走し、秀吉の過大な要求と、朝鮮を支援していた明からの条件との間の板挟みになったのは有名な話。

 結局、秀吉が死亡したことで朝鮮から日本は撤退。
 そして、義智の跡を継いだ宗義成は、1605(慶長10)年、朝鮮侵略で途絶えていた朝鮮との国交回復を成功させ、09年には己酉約条(*条約ではなくて、約条)を結ぶことに成功し、貿易を再開します。再開に際しては、通交者を日本国王(=徳川将軍)と、宗氏および朝鮮官職をあたえられた対馬の者に限定すること、対馬からの船数を年20隻に減らし、寄港地も釜山だけとすることが定められ。今までより厳しい内容ですが、ともあれこの条約によって、宗氏は朝鮮外交の実務と貿易を独占します。  もっとも、その課程で、早く条約を締結しようとしたための国書偽造が発覚し、家老の柳川調興(しげおき)が処分されています。これを柳川一件といいます。具体的に何を偽造したのかというと、交渉に先駆け朝鮮から講和条件として、次の二つのことが示されたのですが・・・・

 一、日本より先に国書を提出すること。
 二は、先王の陵墓を荒らした犯人を捕らえて送ること。

 このうち、一について、幕府としても面子があるので、認められないのですが、宗氏はこれを家康の国書を偽造してしまったのです。さらに、二については、つまり朝鮮侵略で、朝鮮王の墓を荒らした犯人を出せと言うことなのですが、対馬での重罪人を犯人に仕立てて対処。まあ、そんなわけで、幕府も、朝鮮も「本当か!?」と疑うような内容なのですが、結局両者とも合意しました。

 さて、対馬藩となった宗氏の支配地の藩経営の基礎を築いたのは、3代藩主の宗義真(よしざね)。彼は朝鮮貿易の振興、新田開発、銀山の開発などを行い、また対馬藩は、幕府には肥前での分領を与えられ、最終的に12万石の格式をもって優遇されるなど、朝鮮との窓口として幕府に手厚く保護されます。

3.幕末・明治維新下の宗氏

 ところが次第に朝鮮貿易は不振となり、財政の悪化が深刻になります。そのため幕末、大老井伊直弼の時代。対馬藩は、対馬じゃ儲からないから、畿内(近畿地方)に移封させて欲しいとお願いをし、井伊直弼も承諾します。ところが1860年、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺されまして、話はなかったことになってしまいました。

 さらに翌年、ロシア軍艦ボサドニヅク号(艦長ピリレョフ 乗員360名)が対馬の浅茅湾(あさじ)に上陸し、勝手に小屋を建て、古里浦に井戸を掘って滞留のする姿勢を見せ、さらに彼らはボートで湾内をあちこちと乗りまわし、おまけに牛や野菜などを掠奪するという事件が発生。もちろん、島民との衝突も起こりますし、幕府も有名な外国奉行・小粟忠順(ただまさ)を派遣しますが、ポサドニヅク号は半年にわたって停泊し、数々の事件をおこします。

 ボサドニヅク号は結局退去しますが、これによって島内で尊皇攘夷の声が高まり、一部は脱藩し、幕府と移封交渉を行っていた江戸詰家老・佐須伊織を殺害しまし、長州藩の尊皇攘夷派と同盟を結びます。これに当時の天皇・孝明天皇から攘夷勅書・お沙汰を賜ることになります。

 もちろん、保守派は黙ってはいません。1864年、藩主・宗義達(重正 当時18歳)の叔父で奥家老の勝井五八郎はクーデターを決行。攘夷派を一掃し、家老大浦教之助を始め、ことごとく捕まえ、獄門・暗殺・切腹などで100名が粛清されました。

 こうなると泥沼の争いに。対馬藩の場合には、尊王攘夷派が上の身分にも多かったようで、京都家老平田大江を中心とした尽義隊が結成されます。そこで、どちらの派閥を支援するか、佐幕か、勤王かを選択することになった宗義達は、まずクーデターの首謀者・勝井五八郎を斬殺。これに満足した平田大江達が帰国すると、この平田も斬殺し、一連の騒動にケリをつけました。これを、勝井騒動と言います。

 そして、1868(慶応4)年に王政復古の大号令が出されると、新政府の命令で家老・樋口鉄四郎が朝鮮に派遣され、この王政復古についてを通告。そして版籍奉還の時代を迎え、対馬藩は厳原藩になり、宗氏は伯爵に任命されました。

 余談ですが、その後、厳原県は廃藩置県で佐賀県と合流し伊万里県へ。さらに伊万里県は唐津県などを統合しますが、佐賀県へ改称になり、さらに対馬だけ長崎県へ移るという、ちょっと不思議なことになっています。

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