第8回 皆川周太夫・八王子千人同心と
蝦夷地調査物語

担当:大黒屋介左衛門

○はじめに

 男の名は皆川周太夫。  
 寛政12年(1800)、松平信濃守忠明の命を原新助を経由して受け、和人(アイヌから見た内地からの移住者、もしくは内地の人)として初の蝦夷地内陸調査行を敢行しました。その行程は十勝川河口から川筋に北上して日勝国境を越え、今度は沙流川川筋に南下してサル会所、後鵡川川筋に南下して勇払、勇払からシコツ−(千歳川、石狩川川筋)−サ ツホロ−(豊平川川筋)−虻田のルートをおよそ百日間で踏破しました。

 現在でこそ主要な国道とほぼ重なるルートですが、当時は獣道程度の踏み分け道があっ たどうかといったところ、伊能忠敬による蝦夷地測量より少々先行し、さらに内陸部の本格的調査はこれより58年後の松浦武四郎の登場を待たねばならず、彼らにとっては まさに人跡未踏の地を旅する一大探検行であったと推察されます。  ここでは時代背景や八王子千人同心による蝦夷地入植などを交えて彼の足跡をたどって みたいと思います。

1.松前藩の蝦夷地支配とロシアの影

 江戸時代蝦夷地(現在の北海道)を支配していたのは松前藩でした。
 藩主は松前氏、元は 蠣崎氏を名乗る道南渡島半島の一豪族に過ぎませんでしたが、戦国の荒波を越える過程 で勢力を伸ばし江戸の幕府に蝦夷地の統治を任されるに至ります。 松前藩は小藩で広い蝦夷地を統治するにはとても足りませんでしたが、当時の幕府には 蝦夷地の詳しい情報は持ち合わせておらず、おそらく辺境のさらに辺境の蛮族の住まう 土地程度の認識しかなかったものと思われます。

 松前藩は広い蝦夷地の統治に『場所請負制』という特異な制度でもってあたります。 『場所請負制』とはアイヌ居住地域を『場所』でもって区切り、その支配を『場所請負 商人』に委ねるもので18世紀ごろには確立していたそうです。 当時の蝦夷地の産物は干鰯(注1)、俵物(注2)など換金性と需要の大きいもので商人た ちはこれを売りさばいて巨万の富を得、松前藩も労せずして彼らから利益の一部を手に 入れていました。

 松前藩はこれにより小藩のわりに富裕で、場所請負商人たちも文字通り特権商人であっ てまさにわが世の春といったところでしたが時代が下るに従い、彼らをなやますものが出てきます。

 大国ロシアです。
 ロシアは不凍港確保という至上命題に従い、このころにはシベリアを越え沿海州に至り 、次第に千島、樺太、北海道沿岸に姿を見せるようになります。 松前藩はこの思わぬ敵の登場に無為無策にいるより他ありませんでした。先にも述べたとおり彼らは小藩で単独で事に当たるなど不可能です。彼らは富裕でしたがそれを開拓に投資するなど夢にも思わず、またそんなことをすれば幕府も黙ってはいなかったでしょう。

 そうして時だけが過ぎていったのですが、幕府のほうは痺れを切らし、蝦夷地の本格的調査を開始、寛政11 年(1799)には松前藩より東蝦夷地を割譲し直接統治に乗り出します。 こうして八王子千人同心の、そして主役皆川周太夫の登場の下地が出来上がったのです 。 注1・・・主にニシンなどを原料とする魚肥。江戸時代以降栽培が全国に広がっていた 綿の重要な肥料として需要が急激に伸びていた。余談として司馬遼太郎の小説『菜の花 の沖』の主人公高田屋嘉兵衛もこれを求めて蝦夷地にやってきた。
注2・・・昆布、干しあわび、干しなまこなど、主に長崎などに出荷された。これら俵 物は長崎で中国船などに高額で取引される。干しあわび、干しなまこはいわゆる高級中華の食材だが日本産(北海道産)のこれらは現在も最高級品だという。


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