3回 ロマノフ王朝〜ピョートル大帝〜

●ピョートル1世によるロシアの発展

 さてこのロマノフ王朝。農奴制を強化します。農奴というのは、土地を持たず、大土地所有者に隷属する農民のこと。大土地所有者は、当然少しでも多く搾取しようとします。そのため、1670年にコサックの首長ステンカ・ラージンと農民が合流して起こした反乱に代表されるように、たびたび反乱が起こります。

 そんなロマノフ朝ロシアが転期を迎えたのはピョートル1世(大帝 位 1682〜1725年)の治世。異母兄のイヴァン5世と共同統治として帝位につき、異母姉ソフィア・アレクセーエヴナが摂政という形での体制でした。

 しかし、ソフィアがピョートルを疎んじ、なんとピョートルの妻エヴドキアがピョートル暗殺を企てたため、89年にこれを追放。96年にイヴァン5世が没し、単独の皇帝となります。

 彼の下でロシアは大いに発展を遂げます。ピョートル自身が外国人(ヨーロッパ人)達から数学や技術、機械や軍事・造船などの技術を学び、それを生かし、強制的にロシアのヨーロッパ化を進めたからです。とりわけ海の重要性を見た彼は良い港を欲します。そこで1696年、河川艦隊と呼ばれるロシア最初の海軍を組織。オスマン帝国から黒海の北部アゾフ要塞を攻略し、地中海への窓口を確保します。
 だがこれだけでは満足出来ない。なんと彼は変名を使って97〜98年にプロイセン、オランダ、オーストリア、イギリスなどを見学。表向きは250人の使節団ですが、彼は造船工場で実際にハンマーを持って船造りを手伝ってみる。それも40日も。そのついでに900人にも及ぶ職人や専門家を雇う。こうして海軍を強化し、1700年にスウェーデンへ侵攻します。これがスウェーデン戦争、または北方戦争というものです。経過を見てみましょう。

●北方戦争
 まずピョートル大帝率いるロシアは後顧の憂いを無くすためにポーランド、デンマークと同盟を結び、戦争を開始します。これに対しスウェーデンの若き国王、18歳のカール12世はすぐデンマークに侵攻。首都コペンハーゲンを占領し、沈黙させます。そこに攻めてきたのがロシア軍。しかしロシア軍は訓練不足で、スウェーデンにコテンパンにやられてしまいます。
 すかさずカール12世はポーランドにも侵攻し占領!
 ここに自分が操る傀儡王朝を建てますが、元々ポーランドは、国王の権力が弱い地域でした。ゆえにポーランド貴族達が反乱を起こします。この鎮圧に5年もかけてしまったのがカール12世のミス。その間にピョートル大帝は農民達の徴兵令を出し、軍隊を再編。またバルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め、ここを拠点とするようにします(1712年に首都になる)。

 一方、ピョートル大帝は重税をかけすぎたため、ウクライナで反乱が起こります。それでも1709年、スウェーデン+ウクライナ軍は再編されたロシア軍と戦いますが敗北。スウェーデンは疲れ切っていたのです。さらに、ロシア海軍のバルチック艦隊は1714年にスウェーデン海軍を破ります。その後も戦いが続きますが、1718年、カール12世が何者かによって、背後から撃たれ死亡しました。そこでようやく和平交渉。 21年に結ばれたニスタット講和でロシアはバルト海沿岸の大部分を確保します。
 
 その他ピョートルは、ロシア文字の簡素化、アラビア数字の導入、はじめてのロシア語新聞の発行、各種学校の設立、科学アカデミーの創設等を実施、まさに啓蒙君主的な活動。またロシアの人々の特徴である髭(ひげ)を「前近代的だ」として剃らせ、従わない人には髭税をかけました。日本で言えばちょんまげから散髪、ですね。ただ、ロシアの場合この政策は民衆の反発を招きました。

 さらに先ほどの重税。
 戦争を遂行するため国民に重税をかけ、治世中に3回の大きな民衆蜂起が発生しています。とはいえ彼の下でロシアはようやく西ヨーロッパ各国との国力の溝を縮めたのでした。

 また既にシベリアまで領土が広がっていたため、中国を支配していた清とネルチンスク条約を結び、国境を確定しています。シベリア開発は16世紀からコサックが担いました(第2回を参照)。コサックとはトルコ語で「自由人」を意味します。その名の通り独立性が強い。前述した通りウクライナが反乱を起こしていますが、それはコサックのことです。

●ピョートル大帝の不幸な最期
 さて、大帝と呼ばれ、功績を讃えられるピョートルでしたが、家庭的には不幸でした。
 前妻エヴドキアはピョートルの暗殺を企て、彼女との息子アレクセイもピョートル暗殺を企て死刑に(公式には死刑宣告を受けたショック死となっている)。さらに、後妻で信用していたエカテリーナは浮気をする(このためピョートルは彼女の目の前で浮気相手を殺しますが、エカテリーナは顔色一つ変えず浮気を否認)。
 さらに体調も悪くなり、孤独に拍車がかかった彼でしたが、ある日、何と冬の川に飛び込んでしまいます。
 これが、なんとも泣けてくる話で、地方巡視の際、冬の川で座礁している船の乗組員を助けようとして、このようなことをしたそうです。
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 彼は船上で兵士が途方にくれているのを見て、氷のような水の中に入っていき、全員を救いだした。得意満面の笑みをうかべたかれも、ペテルブルクに戻ってまもなく高熱をだしかまわず乱痴気騒ぎをつづけたために、持病も災いして、五十二年の寿命を終えた。(川崎浹『ロシアのユーモア』講談社選書メチエより)
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 このようにして、彼は1725年に死去してしまいます。53歳でした。
 親分的な性格で、さらに体に自信があったのか。それとも、早く死にたがっていたのか。後継者は自ら指名すると定めていましたが、遺書には後継者の名前が記されていませんでした。

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