9回 十月革命とボリシェヴィキ政権の成立

●十月革命への道
 政権をとった臨時政府ですが、戦争継続か反戦か、左翼だけの政権を作るか作らないかで対立が起こります。
 また、経済状態も悪化し社会不安は増大する一方。
 ここにいたって、戦争反対派のボリシェヴィキは行動に出てデモを起こします。そこで臨時政府はポリシェヴィキ鎮圧に乗り出し、レーニンはフィンランドにのがれ、トロツキーは逮捕されます。また、臨時政府はケレンスキー(社会革命党<エスエル党>)が首相になります。

 しかし、ボリシェヴィキの主要メンバーを追い出したところで、ケレンスキー達には経済状態の悪化を防げず、さらに戦争の拡大を望む軍部からはクーデターの声が挙がっていました。また、残ったボリシェヴィキのメンバー達は第六回の党大会で武力革命路線を決定。

 8月25日。軍部のコルニーロフ最高司令官(1870〜1918年)は、首都めがけ進軍。ケレンスキーは、まさか標的は自分ではなく、ボリシェヴィキだろうと思っていたら、自分も標的に含まれていることを知り、あわててソヴィエト、ボリシェヴィキに支援を要請し、これによってコルニーノフを逮捕します。が、もうこれでケレンスキーと臨時政府には力が残っていませんでした。

●十月革命とボリシェヴィキ党独裁
 フィンランドから戻ったレーニンは、1917年10月に革命をおこし、臨時政府の閣僚を逮捕してしまいました。 これを、十月革命といいます。殆ど無血に近い革命で、ボリシェヴィキは冬宮を襲い、閣僚・大臣は逮捕。ケレンスキーは、その前に女装をしてアメリカ大使館の車で逃走。後に抵抗を試みますが、結局フランスに亡命しました。

 さて、この革命進行中の10月25日に第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開催されます。
 ここでは、60%がボリシェヴィキ、残りがメンシェヴィキや社会革命党(エスエル党)を占めました。一方、メンシェヴィキは、この武力革命を激しく避難し退席。社会革命党(エスエル党)は最初は同じく反対していましたが、ボリシェヴィキと連立政権を作ります。んで、この第2回会議で、まずドイツとの講和を決定。第1次世界大戦から手を引くことになります。また、教会や修道院の土地は国有化されるなど、土地の私的所有が否定されました。また、銀行も国有化されます。

 また、政府機関として新たに人民委員会議を創設。レーニンは議長になり、各委員は省に相当するコミサリアートのトップとされます。そして、11月に行われた憲法制定議会のための総選挙。自由に行われた結果、農民の支持を得た社会革命党が圧勝(413議席)。一方のボリシェヴィキは183議席で第2党。

 「なんじゃこりゃ!見込み違いではないか。」
 これを見たレーニンは議会を武力で封鎖、解散させ、一党独裁の政府を形成してしまうのです。この政府の下で、正式にドイツと講和し、ブレスク=リトフスク条約を結び、多額の賠償金やウクライナ・バルト三国独立を認めさせました。

 これに社会革命党(エス・エル)党は、革命の裏切りとして、政権からの脱退を宣言。以前のようにテロを開始します。すなわち、モスクワ駐在ドイツ大使を暗殺し、またレーニン自身もテロリストにおそわれて重傷を負います。これに対してボリシェヴィキは、いわゆる赤色テロルを開始して弾圧します。なお、戦争がドイツの敗北で終わると、ブレスク=リトフスク条約は破棄されました。

 また、ボリシェヴィキは共産党と改名、首都をモスクワに遷都します。
 と、そこへ、外国からの干渉が始まります。イギリス・フランスは、ロシアで捕虜となっていたとされるチェコスロヴァキア軍兵士の反乱支援を名目に、西側から攻め込んできます。また日本は、いわゆるシベリア出兵を強行。また、ソ連内部でも反乱が発生し、モスクワ陥落の危機まで迎えます。レーニンはこれに「赤軍」という独自の軍隊を結成して対抗し、1920年頃にはほぼ上手く抑えます。

*なお、二月革命、十月革命というのはロシア暦です。西暦に合わせ、三月革命、十一月革命とも呼ばれます。

●ニコライ一家の悲劇
 ところで、二月革命で退位させられたニコライ2世と、その家族。
 彼らは臨時政府によって監禁され、ついでシベリアのトボリスクに流されていました。さらに十月革命後は、共産党政権によってウラルのエカテリンブルクへ移されます。しかし、反革命勢力と外国干渉軍による内外からの攻撃が激化していく状況下で、レーニンはニコライ2世が利用されることをおそれます。そして1918年7月16日。一家全員が銃殺されるという悲劇的な結末を迎えました。

 遺骨は長らく見つかっていませんでしたが、1979年にようやく発見。しかしソ連政府はこれを秘密にし、91年になってようやく発見の事実を公表しました。そしてソ連崩壊後、ロシア政府はロシア、イギリス、アメリカの科学者によってDNA鑑定を実施。その結果、
遺骨は皇帝とアレクサンドラ皇后、皇女3人および侍徒ら4人のものであることが確認されました。

 ・・・すると、アレクセイ皇太子と三女マリアの遺骨が無いことが判明。生き延びたのか、それともまだ見つかっていないだけなのか、世界史の謎の1つとなっています。また、2001年8月には、ニコライ2世の骨は「偽物だった」との分析結果を、北里大大学院の長井辰男教授(法医学)と岡崎登志夫助教授らが明らかにするなど、未だに論議を呼んでいます(参考:毎日新聞20001年8月15日)。

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