11回 スターリンの独裁

●スターリン書記長、権力を握る
 さて、何かと有名なスターリンですが、初めから彼がレーニンの後継者として振る舞えたわけではありません。実は、レーニン葬式の時点では、それを取り仕切ったゼルジンスキーが共産党の中心的な人物でした。ところが、ゼルジンスキーはスターリンに比べ、党の仕事が苦手でした。そこで、スターリン書記長とモロトフ書記という2人のコンビが共産党を掌握することになります。そう、このモロトフという人物も、スターリン時代には欠かせない中心的な人物です。

 ところで、共産党と言えば中国を除けば、書記長がトップとなることが多いですが、なんで書記長がトップなのでしょう?
 書記というのは、当然元々は会議などで速記をする役目の人物です。ところが、そうすると重要な情報も握るようになります。そこで、これは重要なポストとなっていったわけです。スターリンが権力を握ったことから、共産党系ではトップや、それに継ぐ地位を書記長として定着したみたいです。ちなみに書記長以外のトップの役職には、委員長だとか、主席というポストがありますね。

 で、スターリン。彼は、ロシア人ではなくグルジア人です。
 また、今も子孫はグルジアにいて、迫害を受けて問題になったこともあります。一方、閲覧者からの情報によりますと、じーさんそっくりの孫、エヴゲニー・ジュガシヴィリは政治活動をやってるそうです。あと生地のグルジアのゴリの街にはスターリン像と記念館があるそうです。

 さて、彼の略歴を紹介しておきましょう。
 スターリンは1912年、レーニンによって党幹部に登用された人物で、トロツキーなどの古参とは違い、基本的には十月革命以後に活躍します。民族問題人民委員部長として国内戦の指揮を執り、国家管理人民委員部長(労働者・農民監督人民委員部長)として活躍し、1922年に党書記長に。

 レーニンが死ぬと、最初はジノヴィエフ(1833〜1936年)、カーメネフ(1833〜1936年)とトロイカ(三人組)を作って、トロツキーに対抗。その後、三人とも追い出し、モロトフと共に党内で独裁体制を築きあげたのです。また、1930年にはスターリン反対派のルイコフ首相も追い出し、モロトフを首相に据え、ここに政府を完全掌握します。

 なおトロツキーは、1929年に追放された後、スターリン批判を続けますが、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に殺害されました。

●農民との戦争・第1次5カ年計画
 レーニンが最初やったように、スターリンも農民から穀物を強制調達をします。スターリンは、農業国ソ連を工業国にしたいと考えます。そこで策定されたのが、1928年〜1932年の第1次5カ年計画です。国内の工業化を第1目標に、あと、農村の集団化も目標でした。そのため、犠牲となったのが農民。で、1928年にスターリンは、生涯初めてにして最後の農村の視察にシベリアへ行きます。これが悪かった。さらにいっそう農民からの穀物調達が進められ、農業集団化計画も強力に推進。

 これは、コルホーズとして設営された土地に農民を送り込み、耕作させるもの。こうすることで、農民を遊ばせておかず、耕作をさせます。これに抵抗する農民はクラーク、つまり富農と名指しされ、次々と処刑。さらに、何百万人もの農民が土地をおわれてシベリアにおくられ死に追いやられます。一方、工業化の方は進み、折しもアメリカなどでは大不況。一方、順調に工業生産を続けているソ連の姿の宣伝(農民迫害の実態は知らず)に、すっかり欧米知識人は感化されてしまいました。

 しかしこれだけでは済みません。1933年には、ツケが回って大飢饉が発生。農業生産の上手い農民・専門家なんかは全部処刑されたり、追放された事も影響しています。ところが、モロトフ書記は農民が来年度用にもっている種子も取り上げればよいだろうと地方幹部を叱責します。結果、32〜33年の餓死者は500〜700万人にも及び、不謹慎ながら、この数字の前にはヒトラーのユダヤ人虐殺も、規模が小さく見えてしまいます。

 また、畜産分野でも1928〜33年の間に、牛や馬の頭数は半減、羊と山羊は3分の1になっています。

 ちなみに、第1次があるなら?第2次、第3次はどうでしょう?
 もちろん、計画経済であるソヴィエト連邦は、ずっと5年ごとに計画を行っています。第2次5カ年計画は比較的順調で、また農民が都市へ流れ労働者になっていきました。社会主義・労働者の国・ソ連の実現です。ただ、第3次5カ年計画はドイツと戦争を行ったので中断しています。また、第11次5カ年計画は81〜85年に実施されています。

次のページ(第12回 スターリンの大粛清と第2次世界大戦)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif