スペイン内戦

担当:裏辺金好

 私がスペイン内戦について知ったのは高校2年生の時である。当時私は山口県徳山市(現、周南市)に住んでいたのだが、ちょうどザビエル来日400年に当たることから、部活において、村岡司浩殿や馬藤炊爺所員と一緒に、ザビエルについて調べていたときのこと。お世話になっていた徳山カトリック教会のメディナ神父(フランシスコ=ザビエルの姉の直系の子孫らしい)というスペイン人の方との話で偶然話題になったことから、研究する羽目になってしまった(全く、うちの部活動の顧問は何でもすぐ研究させるため、忙しいこと限りなかった)。

 ところが、徳山市というのが田舎ということもあり、それ以前に山口県というのがド田舎であることから、ろくな資料が見つからなかった。結局、ほとんど基礎知識のないまま、メディナ神父と顧問の難解な話を鵜呑みにして理解するしかなかった(2人で盛り上がるのだ!)。だが、それでも様々な勢力が様々な思惑で戦ったスペイン内戦は、さしずめイデオロギーのオン・パレードであることは、非常に興味深かった。というわけで、以下はその後に調べたことも含めて、まとめ直したものである。
 

2.教科書でのスペイン内戦記述  本編に入る前に、ちょっと見てほしいこと。それは、高校で一般に使われる教科書・山川出版社の世界史Bにおける「スペイン内戦」の記述である。それは、次の通り。

 スペインでは、1931年国民の支持を失った王制が倒れたのち、政局が混乱していた。36年、選挙で人民戦線派が勝利し、内閣を組織した。これに対し、旧王党派や地主層などの保守派はフランコを中心に反乱を起こした。イギリス・フランスは不干渉の立場をとったが、36年ベルリン=ローマ枢軸を結成したドイツ・イタリアは反乱軍を公然と支援した。一方ソ連は軍需品を提供し、欧米の社会主義者や知識人らは国際義勇軍を編成して政府軍を助けた。このため、内戦は小規模な国際紛争の様相をおびたが、39年マドリードが陥落して、フランコ側の勝利に終わった。

 と、この程度の記述となっている。ページ数の関係上、どうしても余計な記述を省かざるえないのは解るが、しかし「なぜ?」という点が完全に抜け落ちている。この教科書の文では次の点が疑問点として出てくるのだ。

 1.なぜ国王が国民の支持を失ったのか。
 2.31年から36年まで何があったのか。混乱とは何か?
 3,なぜイギリス・フランスは不干渉の態度をとったのか?
 4.フランコって誰?人民戦線って何?
 5.なぜフランコは勝利したのか?
   6.スペイン軍は何をしていたの?(もっとも、これは難しい問題だが。)
 7.ベルリン=ローマ枢軸とは何?

 その他、抜け落ちている記述として、ソ連が軍事顧問を派遣していたこと、また誤っている記述として、実際のところ知識人らの参加者は多くはなく、85%は共産党員であったことなどがあげられる。勉強すればするほど教科書の記述にはうんざりさせられる。だが、それでもこの教科書を評価するとすれば、

 1.軍についての記述を省いたことで、一般に「軍」VS「人民」と語られることの多いスペイン内戦記述の誤りを踏まなかった。
 2.ファシズムVS共産主義と直接は書かなかった。

 と、いう点が挙げられるかもしれない。ちなみに、ゲルニカとヘミングウェーなどについては、小さく別に記述がある。これは別に目くじらを立てるほどのものではない。ただしこの教科書の致命的な問題点は、無敵艦隊敗北以降〜スペイン内戦の間のスペインについての記述が、フランスの動きに関連したスペイン継承戦争のわずかな記述と、「ナポレオンがスペインの混乱に乗じて兄ジョセフを同国王にした。それに対し反乱が起きた」のみであるということである。

 それでは、もう一つ、昔の資料はスペイン内戦について、どう記述していたか。
 小学館の世界原色百科事典(昭和41年)にはこう書かれている。

 第2次世界大戦前夜、スペインの人民戦線内閣に対してフランコ将軍が、資本家、地主、教会をバックにおこした内乱。フランコ側はファシズムのドイツ・イタリアから大量の武器・兵員の援助を受け、一方、人民戦線側には諸政党や労働者の義勇軍のほかに、ソ連や世界各地から義勇軍が集まった。内乱は全体主義対民主主義という国際紛争となったが、イギリス・フランスの消極的態度のため、ついにフランコ軍の勝利に帰し、フランコ独裁政権が生まれることとなった。

 と、典型的な誤解で書かれた文章である。しかし、短い扱いだなあ。何はともあれ、次にスペイン内戦の考察といこう。

3.スペイン内戦について  その直接の前兆は、1931年4月、世界恐慌を背景に国王アルフォンソ13世が社会主義者・共和派の反体制運動により倒され第2共和制が始まった時から始まる。33年11月の選挙で右翼が勝利するが、1936年2月の総選挙で、それまでの右翼政権に勝つため、共和左派、社会党、共産党など、反右翼勢力すべてからなる結成された「人民戦線」が、何とか勝利した。
 ところが、これが新たな対立を呼び、右翼と左翼による争いが一段と激化した。それを政府に収拾する能力はなく、7月にモラ将軍を指導者として軍部右派のクーデタが発生。が、これは政府の抵抗と、軍部右派の足並みがそろわず失敗。だが翌月フランコ将軍率いるモロッコ駐留軍が、スペイン領の北部モロッコより本土に侵攻。
 何故、政府がこれを未然に阻止できなかったかは謎となっているが、とにかく、軍部内は共和国支持派と反乱軍支持派に分裂し、いろいろな利害も絡み、北西部のフランコの反乱を支持する地域と東部および北部の共和国政府を支持する地域にわかれ、内戦状態に突入した。これに対し、イギリス・フランスなどのヨーロッパ各国政府は同年8月初め、この内戦に不干渉することを決定した。が、ドイツとイタリアは、しっかりその約束を破る。まあ、不干渉は条約でなかったが。

 さて、スペイン国内において反乱軍を支持したのは、王党派や保守派、社会的には教会の一部、地主層などの富裕層で、共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルニャの自治を主張するグループであった。ただし、あくまで「基本的には」であり、実際は、同じ立場の人々でも両派に別れている場合が多い。 

 36年9月29日、トレドを陥落させ名声を得たフランコは「国家主首席」「軍司令長官」の座を獲得し、後の独裁の足場を作った。この時、モラ将軍は北部で活躍していたが、フランコの下につかざるをえなかった。

 また、反乱軍はすでに兵員の輸送のために、ドイツやイタリアから航空機の援助をうけていたが、36年11月ごろからドイツ軍やイタリア軍の部隊が直接に参加するようになった。

 一方の共和国軍に対してはソ連が軍事物資と顧問を派遣。これは共産党の勢力を伸ばそうと画策されたものであり、このため社会党VS共産党の骨肉の争いという内戦の中の内戦を引き起こすことにもなる。共和国に対しては、他に国際共産党機関「コミンテルン」より国際旅団(国際義勇軍)が派遣された。55ヶ国4万人ほどの青年と、2万人に及ぶ医療関係者からなる。隊員の85%が共産党員であり、またその出身階層を見るとインテリが45%、労働者44%などとなっている。これについては別に述べる。

 36年秋の反乱軍による首都マドリードへの攻撃は、共和国軍の反撃で挫折したために、フランコの独断で、共和国側が支配している地域を少しずつ侵食する作戦をとった。

 37年4月19日、フランコはミニ政党ファランヘ党を母胎に「国家組合主義攻勢委員会のスペイン伝統主義ファランヘ党」という長たらしい名前の政党を組織し、その党首に就任した。これがその後のフランコ独裁の翼賛を担う。
 
 37年4月26日にはドイツ軍がスペイン北部のビスカヤ県ゲルニカにおいて、一般市民に対し空爆を行うという大惨事を起こす。ピカソの「ゲルニカ」で一躍有名になったが、しかし南に位置するドゥランゴではさらに大規模な空爆が行われた。しかし、これは大して話題になっていない。さらに、ゲルニカはバスク軍の軍事上の要所でもあり、爆撃されても、まあ仕方ないとも言えたのである。両方注目されるなら別として、ゲルニカだけ問題になる・・・絶対におかしいよ、それは。

 さて、そんな中でも共和国内の共産党は、ライバルを排除し主要ポストの独占に走るなど、わざわざ味方の離反を招くような行動をとる。37年5月には、バルセロナにおいてアナキスト(無政府主義)系の全国労働連合(CNT)・反共産党系のマルクス主義者労働党(POUM)と、共産党が市街戦を繰り広げた。

 これは、500人の死者を出しながらもCNTの自制で終結するが、共産党はこれを契機に他の組織の取りつぶしにかかる。「フランコのスパイ」「トロツキー派だ」とレッテルを貼り、次々と粛清を行った。そして、社会党のラルゴ内閣を倒閣させ、生理学者の世界的権威ファン・ネグリンを首相とする共産党内閣を成立させ、内戦を継続する。ただし、ネグリン自身は社会党だから、全くややこしいこと限りない。

 一方、フランコ側でも、モラ将軍が飛行機事故で謎の死を遂げる。フランコの陰謀かもしれないし、そうでないかもしれない。が、フランコにとって目障りな人物が1人減ったことは確かだった。

 攻勢を強めるフランコ軍に対し共和国軍は必死に抵抗するが、最後までもちこたえていた東部の共和国臨時首都のバルセロナ、首都のマドリードが39年にあいついで陥落し、名実共に共和国政府は消滅した。

4.国際旅団(国際義勇軍)  ヘミングウェイなどが参加したことで有名な、スペイン共和国を救うべく結成された国際旅団。これは国際共産党機関「コミンテルン」より派遣されたもので、36年11月の8日のマドリード防衛戦で初陣を飾った。ただし、ろくな訓練を受けていないため、戦闘では多くの死傷者をだすことになる。この中には日本人ジャック白井(函館かその付近の出身。ニューヨークでコックをしていた)もいた。彼は37年7月11日に戦死している。

 さて、必死に戦った彼らの敵は内にもいた。37年5月のバルセロナ市街戦以降、共産党によるトロツキー派狩りが行われ、500名が処刑された。実際にトロツキー派がいたかは解らない。

 そんなこんなで、38年11月15日、共和国のネグリン大統領は、ソ連の承認を得て彼らを解散させた。だが、帰国先で待っていたのは西欧での「赤狩り」と東欧での「トロツキー派狩り」。だが、そんな中で彼らはリンカン旅団元兵士の会(アメリカ)などの組織を作り、未帰還兵の家族の支援や反フランコ闘争の支援などを行い、精力的に活動した。スペイン内乱勃発から50年に当たる1986年には、マドリードで「国際旅団の賛歌」という大会を開き、元義勇兵1000人ほどが参加した。
                         
5.歴史の中のスペイン内戦と軍の動向  単純に1936年〜39年を見るだけでは真相はつかめない。スペイン内戦は、無敵艦隊敗北以降、没落の一途をたどったスペインにおける、数多くの権力争いの最後のものと言っても過言ではないと思う。スペインは、ほんの数人の名君の時代を除き、絶えず争いが絶えなかった。主要なものをまとめただけでも以下のほどもある。

1640年 カタルーニャ地方の反乱(〜52年)。
1701年  スペイン王位継承戦争(〜14年)。
1766年 エスキラーチェ暴動。
1808年 ナポレオン率いるフランスが侵入し征服される。
            スペイン独立戦争(〜14年)。
1814年 エスポス・イ・ミーナ将軍によるクーデター(失敗)。
1820年 リエゴ大佐によるクーデター。
1831年 トリーホス将軍によるクーデター。
1833年 王位継承をめぐり第1次カルリスタ戦争勃発(〜39年)。
1840年  エスパルテーロ将軍によるクーデター。
1843年 反エスパルテーロ将軍によるクーデター。
1847年  第2次カルリスタ戦争勃発(〜60年)。
1854年  エスパルテーロ将軍らによるクーデター。
1868年  プリム将軍らによる9月革命。女王イザベル2世の亡命。
1870年 プリム首相暗殺。
1872年 第3次カルリスタ戦争勃発(〜76年)。
1873年 第1共和制樹立。カンタヘナで自由主義者による反乱。
1874年 パピーヤ将軍の蜂起。第1共和制崩壊。           カンボス将軍によるクーデター。王政復古。
1892年 バルセロナで爆弾テロ事件。以降テロ事件相次ぐ。
1897年 カノバス首相暗殺。
1898年 米西戦争。アメリカの謀略により起こされ敗北し、植民地のほとんどを失う。
1909年 モロッコ戦争(〜27年)。唯一残っていた植民地北部モロッコで原住民が反乱。フランコが頭角を現す。
1923年 プリモ・デ・リベーラに将軍よるクーデター。
1930年 反王制・共和主義者の蜂起(失敗)。
1931年 第2共和制樹立。国王アルフォンソ13世亡命。王制の崩壊。
1932年 サンフルホ将軍によるクーデター(失敗)。
1933年 労働者が蜂起(失敗)。
1936年 モラ将軍らがクーデター(失敗)。           フランコ少将らが蜂起。内戦へ突入。

 と、まあこんな感じになる。特に、なんと軍部のクーデターの多い国であることか。実際、1841年から1936年7月までの間に202回も軍事反乱が起こっている。こうやってみると、スペイン内戦は、数あるうちの1つにさえ見えてくる。実際、モラ将軍のクーデターが成功していれば、内戦に突入することはなかった。だが、彼の目論見が失敗したことから事態はややこしい展開になる。

 また、軍部ときくと独裁政治を思い浮かべ勝ちだが、自由主義を求め起こされたクーデターも数多く存在している。軍部と一口に言っても、時代により様々に中心となる思想を変えていったようである。というか、どうも一枚岩ではなかったらしい。スペイン内戦においてもそれが如実に出ている。下にスペイン内戦における軍部の動向を示す。

共和国政府側についた軍勢力
 ・陸軍16万人(高級士官が多い)
 ・空軍のほとんど(フランコの弟・ラモン、同じく従兄弟のプランテ大佐を含む)
 ・海軍の水兵など

反乱軍側についた軍勢力
 ・陸軍15万人(下士官が多い)
 ・海軍の機関将校(技術士官ら)←内戦勃発と共に、即刻処刑される

 ついでながら、外務省の在外勤務の外交官らも反乱軍に賛同している。彼らは、政府の共産主義化を懸念していたらしい。さらにスペイン国内のカトリック教会は、地域や人物によって分裂している。例えば、同じバスク地方を例にとってもナバラ地域は「カトリックを守ってくれるのはフランコだ」と考え、反乱側について分裂している。だが、そんなラブ・コールとは裏腹に、フランコは、「政教分離」を言っている。どうも、この地域の制圧を担当していたモラ将軍の口車に乗った、片思い的なもののようだらしい。なお、このモラ将軍こそが、この内戦の首謀者だったが、フランコにリーダの座を持ってかれてしまった。

 また、共和国政府をフランコから守れと言われたこの時代、実際には各地で極左による地方執行機関が乱立しており、すでに共和国政府は地上から消えていたと言っても過言ではなかった。何のことはない。結局のところ民主国家であったスペイン共和国は右派と左派の両方から倒されたのだった。

 と、いうわけで、もはや何がなんだかさっぱり解らない戦いである。だいたいフランコの一族ですら、分かれてしまっている。フランコの兄は、フランコをスペインのリーダーにすべく、あれやこれやと策謀を巡らす一方、弟と従兄弟は徹底抗戦。なお、弟のラモンはフランコの大のお気に入り。何とか救出しようと、フランコは懸命に努力したらしい。

6.まとめ  なぜ、共和国側は勝てなかったのか。1つの敗因は、醜い内部争いである。敗北確実になりながら、共産党による他勢力排除政策は、もはや救いがたい行動である。ただ、こういった行動は危機に瀕した場合に人々がよくとる行動とも言える。しかし最初から作戦がまずい。もし、真にフランコというファシストを危険視していたら、とるべき作戦は「ゲリラ戦」であったはずである。昔、ナポレオンを追い出したときに、この作戦が使われた。
 
 一方、なぜフランコは勝てたか。それは、逆に諸勢力に都合のいい解釈ができるようなメッセージを送り続けたことにある。フランコは軍人だが、あまり軍事作戦には有能でもなかったようだ。だが、それでも勝てたのは、「あいまいさ」にある。この「あいまいさ」が第2次世界大戦でスペインを中立へ導いた(フランコ政権内部では、大混乱があったようだが)。
 
 でも、結局のところスペイン内戦は謎だらけである。もう、何がなんだか解らないと言うのが本音。
 
 そんなことよりも、歴史的に、これだけ長いこと左派と右派の闘争や、軍部の反乱や地域紛争を許したスペインという国は何だ?と思う。しかも、そのくせ、実は長い民主主義の伝統を持つ国なのである。
 
 さて、第2版。内容については改変はしなかったが、読みやすくしたつもりである。世界各地域史の執筆で忙しいが、機会があったら今度はファン・カルロスについても調べたいと思う。また、この時代より少し前にいた皇帝、アルフォンソ12世という、国民から熱狂的支持を集めた名君も面白そうである。国民と積極的に関わり、多くのイベントにまで顔を出し、お忍びで外に出て、そこでかかった病気で死んだとさえ言われる彼の生涯をぜひ調べたいものだ。資料は少ないだろうが・・。

 それにしても、何と長いスペインの内戦の歴史があることか・・。スペインから大きな闘争が消えたのはつい最近のこと。それでも、バスク分離運動によるテロもあり・・全く、平和になるのはいつの日か・・。あ、でも平和って何でしょうな。なんて考えることしばしばの今日この頃でやんす。
 
7.補足:フランコについて
 最後にフランコについて少し。
 彼はスペインのガリシア地方出身で、1910年にトレドの陸軍歩兵学校を卒業し、リーフ族の反乱やアストゥリアス山での労働者蜂起を鎮圧するなどして戦功を挙げた。そして、1935年にモロッコ方面司令官に就任。

 翌年、の人民戦線政府成立で左遷となるが、同年7月のモロッコにおける軍部の反乱に参加し、8月に、スペイン本土に反乱軍を少しずつ上陸させ内戦開始。9月に指導者の座に就く。37年4月には(新)ファランヘ党という党の党首になり政治的立場を得る。そして、39年にスペイン共和国を滅亡させ、独裁体制に入るも、第2次世界大戦においては実質的な中立を保つ。

 ただし全く関わらなかったのかといえばそうではなく、実はドイツに義勇軍を送っていたため(形の上で送らせたものだが、全滅している)、国際連合はスペイン排斥を決議。そこで、「この苦境を脱するのは私しかいないのだ」と、これを利用してフランコは終身の国家首長となった。

 そして1953年、スペインは国際社会に復帰した。 ここでフランコは自由主義的な体制への移行を図り、言論統制も緩和。さらに、1969年にはアルフォンソ3世の孫ファン・カルロスを後継者に指名。バスク独立問題や、EC加盟、政党を認可するかなど、様々な問題を残したまま75年にフランコは死去し、スペインはファン・カルロスが段階的に民主制に移行させ、形式的な王をいだく国となった。

 フランコは、人間味が少なく、高度な知識への興味がなく、誤った固定観念も結構持っており、またマシーンのごとく仕事を行う人物だったらしい。また、共和主義者の大粛清も行い悪名を残している。ただし、スペインの近代化という点では功績はあり、典型的な武人で、彼自身は私利私欲に走らず、清廉潔白であったとか。とにかく、仕事はできる男だった。もっとも、彼のオヤジは45年に病死するまで「馬鹿息子め」と言い続けていたらしいが・・・。

   ------参考文献------
    山川出版社  「新版 世界史B」
    河出書房   「図説 スペインの歴史」
    中央公論新社  「フランコ スペイン現代史の迷路」色摩力夫著
    平凡社        「スペイン・ポルトガルを知る辞典」池上岑夫ら編 
    マイクロソフト社 エンカルタ百科事典2001 フランコ写真も
    山口県立徳山高等学校地理歴史部 「発見新事実」村岡司浩・裏辺金好ら編(笑)          
その他、本屋で立ち読みした本などなど色々・・・・。

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