ヴィドヴダン──なぜ6月28日にサライェヴォ事件が起こったのか

担当:相良義陽

○はじめに
 ヴィドヴダン(Vidov dan)というのは、セルビア語で「聖ヴィトスの日」という意味です。
 聖ヴィトス(ヴィトゥス、ヴィートともいう)は3世紀終わりか4世紀初め頃にシチリアで生まれたとされる聖人です。時のローマ皇帝ディオクレティアヌスに捕まり、皇帝の息子の病気を治すなどの奇蹟を行ったものの、処刑されました。
 それで、癲癇病にあらたかな聖人として崇拝されています。処刑されたときにまだ少年だったせいか、おねしょにも効果があるとか。
 このレポートでは、ヴィドヴダンが偶然から民族的な祝日へと変貌していくさまを追いたいと思います。

○偶然その1──コソヴォの戦い
 1389年の6月15日(ヴィドヴダン)のことです。小アジアを中心に勢力を拡大していたイスラムの新興国家オスマン朝が、バルカン半島南部のセルビア王国に攻め込みました。

 両軍はセルビア王国の中心地コソヴォ平原で激突。結果はセルビア軍の一兵士が隙をついてオスマン朝のスルタン、ムラート1世の殺害に成功した、という大事件があったものの、セルビア王国の大敗に終わりました。セルビア王国はコソヴォを明け渡し、北のほうでなんとか命をつなぎますが、結局1459年に滅亡します。

 キリスト教世界のために犠牲となったセルビア。そして、破れはしたものの敵の君主を殺害して一矢報いたセルビア。ヴィドヴダン、コソヴォという言葉とともに、セルビア人はこういったイメージを持つようになるのでした。

○偶然その2──ユリウス暦からグレゴリオ暦への改正
 現在ヨーロッパ諸国(日本も)は、グレゴリオ暦というのを使っていますが、それ以前はユリウス暦というのを使っていました。ユリウス暦は、ユリウス・カエサルが考案した暦で、4年に1日閏日を設けるというものです。1年が正確には365と1/4日であるので、閏日を設けます。

 ですがこれはちょっと正確ではありませんでした。1年の長さを精密に測ると、閏日は400年に97日設けなければいけません。なのに、ユリウス暦では400年に100日閏日を設けています。つまり、400年あたり3日、閏日が多かったのです。制定した当時は400年あたり3日の誤差なんて問題になりませんでした。しかし、採用(教会は325年のニケーア公会議でユリウス暦を採用しました)から1200年たつと、この誤差は10日。どんどんどんどん季節と暦がずれてきました。

 16世紀になって、さすがにこれはまずいよね、ということになって、時のローマ教皇グレゴリウス13世(天正少年使節が会った教皇です)の主導で、グレゴリオ暦への改正が行われました。

 とはいっても、全ヨーロッパが一斉にグレゴリオ暦を採用したわけではありません。プロテスタントが主流の国々は教皇の決めた暦で祝日を祝うのを嫌がりましたし、東方正教会諸国(ロシアやセルビアなどです)もなかなか採用しようとはしませんでした。

 余談ですが、1917年のロシア革命が「2月革命」または「3月革命」、「10月革命」または「11月革命」と二通りの言い方をされるのは、当時のロシアの暦がユリウス暦だったからです。「3月革命」「11月革命」がユリウス暦、「2月革命」「10月革命」がグレゴリオ暦というわけ。

 さてさて、そんなロシアも1918年にソヴィエト政府がグレゴリオ暦を採用。いまではもちろんグレゴリオ暦を使っています。ですが、未だにグレゴリオ暦を使っていないところがあります。それは、東方正教会(ギリシア正教会)。おかげでロシアやセルビアでは、国家政府はグレゴリオ暦、教会はユリウス暦という状態です。教会がユリウス暦ということは、教会関係の祝祭日が13日全てずれているということです。そのせいで、ロシアやセルビアではクリスマスをグレゴリオ暦1月7日に祝っています。

 おかげでヴィドヴダンもずれてしまいました。カトリックやプロテスタントは、聖ヴィトスの祝日を6月15日に祝っています。ですが、正教会諸国では6月28日に祝っているのでした。

○偶然その3──サライェヴォ事件
 6月28日は、以上のような偶然で元来、聖ヴィトスとは関係ないはずのこの日が、東方正教諸国限定で聖ヴィトスの祝日になりました。

 そしてさらに、偶然にもこの日はオーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド大公の結婚記念日でした。
 「帝位継承者」というのは耳慣れない言葉です。ときどき「皇太子」なんて書いている本やサイトを見かけますが、彼は皇太子ではありません。一族の反対を押し切って平民から妃を迎えたりしたので、皇太子にしてもらえなかったのです。
 平民出の妃は、宮廷行事にも出ることを許されず冷遇されていたと言います。

 そんな妃のためにフランツ・フェルディナンド大公が企画したのが、結婚記念日に新領土ボスニアの中心都市サライェヴォで軍事パレードをするということでした。その日が偶然にも、「外国勢力に破れたものの君主を殺害して一矢を報いた」記念日だったのです。

 積み重なった偶然の結果は、みなさんご存じの通り。ヨーロッパ全域を巻き込んだ大戦争でした。

○必然その1──ヴィドヴダン憲法
 1918年、第一次世界大戦が終わりました。そのあともバルカン半島では紛争が続いたのですが、1920年になってやっと国境が確定します。セルビア人とクロアチア人、それにスロヴェニア人は、いっしょになって「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国」を建国しました。これがのちのユーゴスラヴィアです。

 セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国は1921年のヴィドヴダンに憲法を制定しました。この憲法はその制定日にちなんで、ヴィドヴダン憲法と呼ばれます。6月28日は、民族の、そして国家の記念日となったのでした。

○偶然その4──コミンフォルム追放
 セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国(その後国王独裁でユーゴスラヴィアと改名)は、ナチスドイツの侵攻の前にあっけなく滅ぼされました。ですが、チトー率いる共産主義ゲリラの活躍で、1944年にナチスドイツを追い出します。
 さて、第二次世界大戦が終わると、ユーゴスラヴィアとソ連の関係は早くもぎくしゃくし始めました。問題となったのはギリシア内戦で、ソ連がイギリスと協定を結んでギリシアを西側に提供しようとしたのに対し、チトーは頑としてギリシアの共産主義ゲリラへの支援を止めなかったのです。

 怒ったスターリンは、1948年の6月28日、コミンフォルムからユーゴスラヴィアを除名しました。
 スターリンの側にこの日付を選ぶメリットはありませんから、恐らくスターリンはヴィドヴダンのことを知らなかったのでしょう。よりによってこの日に最後通牒を突きつけられたユーゴは、チトー以下団結。スターリンが期待したような内部崩壊は起こりませんでした。以後、ユーゴスラヴィアは、東側と手を切って第三世界諸国の連帯を目指していくようになるのでした。

○必然その5──ユーゴスラヴィア崩壊
 以上のような事情がありましたから、ヴィドヴダンにセルビア人が愛国心に燃え上がるというのはユーゴスラヴィアでは周知の事実でした。
 1991年、スロヴェニアが独立宣言を行って、ユーゴスラヴィアの崩壊が始まりますが、スロヴェニアが独立宣言を行ったのは6月26日、でした。ヴィドヴダンを避けたのです。

 その後、ユーゴスラヴィアは凄惨な内戦をまき散らしながら、崩壊していきました。
 戦犯のひとりとされるセルビアのミロシェヴィッチ元大統領がオランダの国際法廷に移送されたのも2001年の6月28日でした。しかしこのとき、騒ぎはほとんど起こらなかったようです。

 さて、今年の6月28日は何が起こるのでしょうか。

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