五代将軍 徳川綱吉
●徳川綱吉 基本データ
生没年 1646(正保3)年〜1709(宝永68)年 64歳将軍在位 1680(延宝8)年〜1709(宝永6)年
父:徳川家光 母:お玉の方(桂昌院) 兄:徳川家綱 徳川綱重 息子:徳松(早世)
●業績
・弛緩し始めた幕府綱紀の粛正・不良代官の処罰と交代
・治政不良の大名を次々と処罰 お家騒動もってのほか
・勘定吟味役の創設など、天和の治と呼ばれる政治を展開。
●考察・エピソード
綱吉は学問好きで、自ら学ぶだけでなく、家臣にも講義するほどの打ち込みよう。興味のない家臣にとっては、さぞかし地獄であっただろう。そんな綱吉といえば、生類哀れみの令や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。しかし、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。
その綱吉の改革の中心的役割を担ったのが大老の堀田正俊。春日局の養子で、綱吉の兄である家綱の小姓となったことから出世の道がスタート。1867年には老中にまで上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと考えた大老・酒井忠清に対し「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局正俊が勝ち、忠清は綱吉に「おや、顔色がすぐれぬな。仕事はいいから、家で養生しなさい」とクビになった。そして、正俊は大老となったのである。
で、この2人がやったことは「綱紀粛正」であった。治政不良の大名は次々と処罰を受けた。御家騒動などもってのほか。また、代官の不正も許さなかった。一方で真面目な者達は表彰する。彼らは、いわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのだった。また、勘定吟味役という読んで字のごとくの幕府の役職も創設した。
だが1684年に、いかなる理由からか堀田正俊が、甥の稲葉正休に殺されてしまう。一説には正俊と綱吉の仲が悪くなり、正休が綱吉の命で殺したという(だが、嫌いならクビにすれば良いだけのこと)。またもう一説には、淀川改修工事を巡るトラブルがあったらしい。正休のたてた改修計画の費用見積もり4万両に対し、正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させたところ半分の費用ですむことが判明。これで面目を失った正休が正俊を殺したそうな・・・。
そして、この頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ねた。
護国寺
東京都文京区にある護国寺は、綱吉の母である桂昌院の願いにより、彼女が深く帰依する亮賢を僧正として、徳川綱吉が建てさせた真言宗の寺院。
写真の観音堂(本堂)が1697(元禄10)年の建築で、徳川綱吉が建てさせた当時のもの。ちなみに境内には、三条実美、山県有朋や大隈重信、実業家の大倉喜八郎の墓なども存在。
湯島聖堂
学問、特に儒学オタクであった徳川綱吉が1690(元禄3)年に儒学の振興を図るために、朱子学派儒学者の林羅山が上野の私邸に建てた孔子廟「先聖殿」と、林家の家塾を移築したもので、現在のJR御茶ノ水駅近くにある。
老中松平定信の時代である1797(寛政9)年には林家の手を離れ、幕府直轄学校「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」となり、明治になると東京師範学校、東京女子師範学校などを経て、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展していく。
なお、現在の建築は1935(昭和10)年に伊東忠太(東京帝国大学教授)の設計により、寛政時代の旧制を模して鉄筋コンクリート造りで再建された近代建築。
また、男児が生まれず、唯一誕生した徳松は早世してしまい、生類哀れみの令を出した。つまり、「子供が生まれないのは、前世に殺生をしたため」だとか。これを進言したのは、桂昌院が帰依する江戸湯島の僧・亮賢(りょうけん)、または、やはり桂昌院の僧・隆光といわれている。
「みだりに鳥を撃ってはならぬ」など、その理念は立派だが、これに違反した者の処罰が過激すぎた。そして、犬公方と言われるほど犬を大切にし、今の中野区のサンプラザのあたりで野良犬を保護し、えさを与えた。でも、これは野良犬対策には有効だったのでは?
また、勘定奉行荻原重秀に貨幣の改鋳をさせ、粗悪な金貨を作る代わりに貨幣の量を増やし、物価の高騰を招く(この通貨政策は評価が二分。一般には悪く言われているが、支持する学者もいる。事実、荻原重秀を痛烈に弾劾した新井白石だったが、自身でも通貨政策は上手くいっていない。ま、難しいんですね)。
ちなみに、荻原重秀は「通貨という物は、政府の信用があることが大切であり、そのためには金貨である必要もなく、瓦でも良い」という名言を残している。これを見る限り、なかなかの経済通のようだが・・・。
一方、柳沢吉保は綱吉の死とともに、権力の座にしがみつくことなく辞任。宮仕えから解放され、ようやく大好きな学問に浸る生活を始めた。また、文京区に今も残る庭園・六義園は彼の手によるもの。ちなみに彼の息子・吉里は名君として名高く、もしかすると吉保もその素質はあったのではないかと推測する。だいたい、気性の激しい綱吉の側近は、ただのおべっか使いではつとまらなかったはずである。
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