七代将軍 徳川家継
●徳川家継 基本データ
生没年 1709(宝永6)年〜1716(享保元)年 8歳将軍在位 1713(正徳3)年〜1716(享保元)年
父:徳川家宣 母:お喜世の方(月光院)
●業績
・とくになし●考察・エピソード
若いながらも聡明な人物だったらしく、謁見した大名の中には「徳川家も安泰」と涙する者もいたという。新井白石にしっかりと師事し、間部詮房を父のように慕ったそうである。しかし、如何せん病弱で、さらに新井白石も間部詮房も幕府内では立場が弱い。そのため、家継存命中に、後継者を巡って、家宣正妻の天英院VS家継の母・月光院の間で争いが発生。天英院側は尾張家の徳川継友を後継者に推し、月光院は間部詮房と共に紀州家の徳川吉宗を推した。最終的に、幕閣に根回しを、何より紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗が勝利。家継が死ぬと八代将軍となった。
ところで、1716年に吉宗が将軍になると譜代から評判が悪かった新井白石も間部詮房も、お役ご免となった。このうち間部詮房は越後村上に転封され、1720年、失意のうちに病死することになる。ただし、その子孫は越前鯖江の藩主となり、幕末に老中となった間部詮勝は安政の大獄で、井伊直弼の手先として数々の尊王攘夷派の志士・公卿を弾圧し恐れられた。しかし、直弼の番犬だったわけではなく、その後、直弼と対立し辞任している。
新井白石の方は幕府を去った後、それまでの体験を元に執筆活動に入り、1725年に亡くなった。自叙伝「折たく柴の記」は当時の政治史料として大変貴重である。もちろん不遇であったが、彼が推挙した室鳩巣は、徳川吉宗のブレーンとして活躍している。
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