十代将軍 徳川家治
●徳川家治 基本データ
生没年 1737(天文2)年〜1786(天明6)年 50歳将軍在位 1760(宝暦10)年〜1786(天明6)年
父:徳川家重 母:幸子(お幸の方) 弟:徳川重好(清水家)
息子:徳川家基
●業績
・聡明とうたわれた割には、全てを田沼意次に丸投げしたが、田沼意次を決して罷免せず、彼の思うように経済政策をとらせたことは大きな業績といえるだろう。
(もっとも、次第に仲が悪くなったと言われているが)
・将棋が非常に強く、「象棋考格」という詰め将棋の本を晩年に著す。
●考察・エピソード
剣術を柳生久寿に学び、槍術は小南三十郎に学び、更に鉄砲も百発百中と、多少誇張はあるだろうが、かなりの腕前であったようである。さらに、絵や囲碁・将棋も堪能で、まさに文武両道であった。そのため、徳川吉宗から大いに期待されていた。初期の頃は、老中の松平武元(たけちか)、側用人の田沼意次を使い政治を行い、特にこの田沼意次を重用し、最終的に老中にまで取り立てた。しかし、次第に田沼意次に丸投げするようになり、また息子の徳川家基が、鷹狩りの帰路、突然もがき苦しみ、18歳の若さで突如死去すると(毒殺説もあり)、いよいよ政治に無関心となる。
ここで後継者問題が発生。田沼意次と特に懇意になった徳川治斉(はるさだ)が動き出した。彼は、吉宗が、将軍に後継者がいないときには跡継ぎを出すと定めた御三卿の1つ・一橋家の当主。彼は、将軍家治の体質から考えると、もう跡継ぎは出来まいと考え、そうすると自分の所から将軍を出したいと思う次第。
しかし、そこでライバルとなるのが、やはり御三卿の1つ・田安家。 当時の田安家当主の治察(はるあき)は虚弱体質でどうせもう先は長くないし、子供もいない。それはいいが、弟の賢丸(まさまる)というのが残っていて、これがライバルになりそう。そこで治斉は、将軍に圧力をかけて、無理矢理、賢丸を奥州白河藩(福島県)の、松平定邦の養子に飛ばしたのである。これに、田沼意次が協力したらしい。
この賢丸こそ、後の老中・松平定信。果たして、家治には後継者が出来ず、治察も子がないまま病没。10代将軍の座は治斉の子、家斉が射止め、さらに後継者のいない田安家は、家斉の弟が跡を継ぐと、事実上一橋家に乗っ取られる。当然、松平定信は徳川治斉を恨む・・・・と思いきや、猛烈に田沼意次を恨んだ。熱烈に田沼意次の悪口を言いまくり、賄賂老中だとねつ造して人々に言いふらし・・・。
さらに、家治が病気で倒れると、徳川治斉は田沼意次を裏切り、松平定信に接近。定信は、彼を自派に入れるという始末。そして家治は、田沼意次の差し出した医者の薬を飲んだとたんに、危篤に陥り、死去しため、定信は田沼が上様を殺したと言いふらすが、家治がいないと田沼意次の失脚は目に見えているわけで、彼が家治を殺す理由はどこにもない。
考えてみれば、定信には聡明な父・宗武が取れるかもしれなかった将軍職を、家治の父で無能な家重が持っていったという恨みがあり、つまりもしかすると自分がなれるはずだった将軍の座を取られたという恨みがあるわけで、そう考えると・・・・。何とも奇怪な家治の最後である。
次のページ(十一代将軍 徳川家斉)へ
前のページ(九代将軍 徳川家重)へ