十六代宗家当主 徳川家達

●徳川家達 基本データ

 生没年 1863(文久3)年〜1940(昭和15)年 77歳
 父:徳川慶頼(田安家) 弟:徳川達孝 息子:徳川家正
 娘:鷹司綏子 松平綾子 松平繁子
 

●業績・御仕事

 ・ワシントン軍縮会議全権大使を務める
 ・徳川一族のまとめ役
 ・貴族院議長(明治36年〜昭和8年)
 ・第6代日本赤十字社社長(昭和4年11月2日〜昭和15年6月5日)
 ・国際連盟会会長 として活躍

●考察・エピソード

  徳川慶喜の後、徳川宗家を継いだ徳川家達。
 よ〜く目を凝らしてみると、高校の歴史の資料集や一部の歴史の教科書にも登場しているので、是非探してみて頂きたい。

 さて、徳川慶喜が明治政府に降伏すると、徳川宗家、つまり旧将軍家の跡継ぎは、御三卿の1つ田安家の当主・亀之助と決定した。後の徳川家達である。当主と言ってもまだ6歳。本来は、14代将軍家茂の跡を継ぐはずだったが、幕府滅亡の危機にあるときに、当時4歳の亀之助に将軍が務まるはずがなく、様々な対立の末、さすがに慶喜に・・・となった経緯がある。

 もっとも、(嫌々)将軍の座に就けた慶喜が幕府を滅ぼすことになったのだから、さぞかし幕府関係者の慶喜への恨みは深かったであろう。そして、家茂正室の和宮勝海舟など、様々な人々の努力で徳川家取りつぶしは免れ、 亀之助が16代徳川宗家当主の座に就いたのである。

 そんな6歳の彼を待ち受けていたのは明治新政府によって江戸を追い出され、徳川家康ゆかりの地である駿府、正しくは駿河府中への移住である。領土は10分の1と大幅に削られ、多くの幕臣がこの後生活に苦しむことになる。この移住の道中、亀之助が駕籠(かご)の中から、周りの物全てが珍しそうにはしゃぐ姿と、一方で沿道の住民は平伏もせず、官軍の中には空砲を撃って脅す者もいたぐらいで、亀之助お付きの人々は涙したという。なお、駿河府中は、府中=天皇に対する不忠ということで、静岡と改名。

 もっとも、亀之助、改名して家達は版籍奉還・廃藩置県によって、他の藩主と共にあっさり藩主の座から解任。藩主は全て華族として東京に集められることになり、また戻っていくことになる。彼は千駄ヶ谷に住むことになった(ちなみに慶喜は華族でないので、静岡にとどまる)。

 1884(明治17)年、立派に成人した家達は華族令公布と共に最高位の公爵に任命。さらに明治23年には貴族院議員となる(公爵と侯爵は世襲議員)。さらに彼が41歳の明治36年から昭和8年まで、なんと30年も貴族院議長を務め、まさに華族の頂点として君臨した。また、徳川慶喜の子供達を東京の学校に通わせたり、一族の相談に乗るなど、徳川家のトップとして信頼される。彼の性格は温厚で円満だったと言われ、良い意味での「貴族」であったのだろう。

 そんな徳川家達は、実は総理大臣になる話もあった。というより、彼さえ承諾すれば総理大臣になるはずだった。

 時は1914(大正3)年、シーメンス事件、簡単に言ってしまえば贈収賄によって山本権兵衛内閣が総辞職したのだが、この後の総理大臣にと組閣の大命をうけたのであった。しかし、家達は一族で会議を開いた上で、固辞。徳川家達首相は幻になってしまった(結局、大隈重信が首相になり、第1次世界大戦へ参戦)。だが、彼は歴史の表舞台に登場することになる。それは、1921(大正10)年のワシントン軍縮会議である。

 彼は海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎とともに、ワシントン軍縮会議首席全権を勤めたのである(つまりアメリカにまで行ったわけである)。この会議で、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にするべしと条約を締結。ご存じの通り、この決定に国内からは軟弱外交と批判を受けることになる。

 また、1929年(昭和4)年11月、第6代日本赤十字社社長に就任。1934(昭和9)の第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催にに尽力した。ちなみにこれは、アジア初の国際会議である。1940(昭和15)年、死去。

 *そもそも一般に言われる「国際赤十字」は、赤十字国際委員会、国際赤十字・赤新月社連盟、各国の赤十字社・赤新月社の3つを総称した言い方。このうち、赤新月社(白地に赤い三日月のマークを使用)とは、イスラム教国の赤十字社のこと。イスラム教では赤十字の”クロスマーク”が嫌われているため、三日月のマークとなっているのである。ただしインドネシアは例外。
 (日本赤十字社 広報企画室 用語集より編集)

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