4回 11世紀〜18世紀の東南アジア史概論

●ヴェトナム史概論

 さて、前回までは主に古代〜東南アジアで出来た初期の王朝についてみていきました。今回は、11世紀から。すなわち、この頃より、東南アジアの全域で王朝が建国されていきます。まずは、概論。

 ヴェトナム地域では、李朝(1009〜1225年)が成立。この李朝は、国号を「大越」と称します。しかし、この李朝は伝統的なヴェトナムの豪族の勢いが強かったこと、それから農民に多大なる税をかけたうえ自然災害も発生。さらに宮廷内部の争いも起き、混乱の中、外戚の陳(チャン)一族によって廃されます。

 そして、成立した陳朝(1225〜1400年)。こちらは、中央集権化を進めていきます。そして、中国にならい行政制度や完了任用制度である科挙を整えていきます。また、3度にはわたりモンゴル人が中国にたてた元(1271〜1368年)の侵攻を受けますが、これを撃退。

 ところが、陳朝も大きく力を失います。そして、やはり農民に多大なる税負担をかけたことから一揆が発生。1400年、官僚の胡季リイが帝位を奪います。

 が、長続きせず、これ好機とばかりに明の侵攻を受け、明の支配が続きます。これを黎利(レーロイ)が追い出し、黎朝(1428〜1789年)を建てます。そして、南方にも進出し、ついにチャンパーを滅亡させます(もっとも、実際には細々と活動を続けていたらしい)。しかし16世紀には無能な王が続き、将軍の莫登庸(マクタンズン)が王位を奪います。

 これに対し、黎朝を再興せよと阮氏と鄭氏が莫登庸を倒し、黎朝は再興。しかし結局ハノイに鄭氏政権が、中部のフエにはグエン(阮)氏政権が割拠して抗争をくりかえし、黎朝の皇帝は実権を失います。最終的には、18世紀のタイソン(西山)党の反乱によって滅亡しました。

 しかし、これは長く続かず、滅ぼされた(阮)氏政権が復興しました。

●ミャンマー(ビルマの歴史)概論

 
ミャンマーは紀元前3000年頃に定住したモン族、それからピュー族が治めていましたが、1044年、ビルマ族による、ミャンマー初の統一王国が誕生します。それが、パガン朝です。首都は、イワラディ川上流のパガン。また、ここの王達は過剰に仏教を信仰します。

 そして、が東南アジア支配を目指し侵攻。1287年、服属という形ですが、事実上滅亡。その後、
上ビルマはシャン人による支配(アバ朝。1364〜1555年)、下ビルマはモン人が勢力を盛り返し、ペグーを拠点とするペグー朝(1287〜1539年)の支配が行われます。

 ビルマ人はシャンの支配をきらってビルマ東南、シッタウン川上流の要塞都市・タウングー(トゥングー)にのがれ失地奪回をはかります。そして1531年、タビンシュウェティがが、ペグー朝を滅ぼし、ペグーを都とするタウングー朝(1531〜1752年)を建国。さらに、第2代のバインナウン(位1551〜81)はアバ朝を滅ぼし、アユタヤ朝シャム王国を攻略!。

 が、その後衰退をはじめ、さらにモン人の離反を招き1752年に滅亡させられました。これに対し、ビルマ族も反撃。モン族を撃破し、コンバウン朝(1752〜1885年)が建国されました。

●シャム(タイ)の歴史概論
 タイ地域はアンコール朝クメール王国の支配を受けていましたが、これの衰退とまた、元が南下してきたため、雲南省地域よりタイ族が南下。スコータイ朝(1257〜1350年)を建国します。ところが、これは同じタイ人が建国したアユタヤ朝(1350〜1767年)に滅ぼされます。アユタヤはクメールも圧倒し、滅亡に近い状態にしました。また、日本やヨーロッパとも交易。

 ところが、ミャンマーのコンバウン朝に滅ぼされました。ところが、このコンバウン朝は中国の清と争いはじめたため、タイの人々は隙をねらいビルマ族を追い出し、バンコク(チャクリ)朝(1782〜)を建国しました。この国は、東南アジアで唯一ヨーロッパの支配を受けず、現在まで続いています。

 ラオスでは、14世紀にタイ族系の民族であるラオ人がランサン王国を成立させます。仏教文化が栄えますが、18世紀にはいると、王位継承問題から、ルアンプラバン王国、ビエンチャン王国、チャンパサク王国の3つに分裂。弱体化を招き、いずれも隣接するシャム(現タイ)に従属させられます

●インドネシア・マレー半島史概論

 インドネシアでは、14世紀に衰えたシュリーヴィジャヤ王国に代わり、最後のヒンドゥー教国家、マジャバイト王国が建国(1293〜1520頃)。これはイスラム教国家であるマタラム王国(16世紀末〜1755年)に取って代わられ、以後インドネシアではイスラム教が中心になっています。この他、東ティモールと共に独立運動で有名になった地域にアチェ王国(15世紀〜1903年)も建国されています。

 また、マレー半島にはイスラム教国家ムラヤ(マラッカ)王国が建国。

 このように、インドネシア、マレー半島は、それまでのヒンドゥー教と仏教に代わり、イスラム教が主流になります。
 一方でヨーロッパの影が出てきます。ポルトガルは東南アジアの香料を手に入れるべく、

 フィリピンは、1521年に世界一周を目指すスペインのマゼラン一行がこの地を訪れ、スペインの王権を主張。マゼランはこの地の首長、ラブ・ラブに殺されます。しかし、これを契機にスペインが侵攻し、この地を占領し支配。その中心として、マニラが建設されました。

 また、それより前にポルトガルは、ムラヤ王国を滅ぼし、ここに植民地を建設。ただし、こちらはあまり上手く行かず、オランダに奪われました。その他、イギリスなど、ヨーロッパ各国は大航海時代の中、東南アジアに進出する下地をどんどん作ってゆきました。

 そして、この後、いよいよ各地でヨーロッパの支配との戦いが始まるのです。

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