8回 東南アジアのイスラム化とヨーロッパ
●ヨーロッパ人がやってきた |
さて、15世紀末〜16世紀はヨーロッパで大航海時代が始まった時代でもあります。それまで、東南アジアの香料はイスラム商人を通じ、イタリア半島の交易都市国家ヴェネツィアによって輸出され、かの国は独占貿易で多大な利益を上げていました。
ところが、いっそのこと直接貿易してやろうと考えたのが、ポルトガルです。
ディアスなど、様々な航海者の度重なる南進の末、南アフリカ経由で、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達し、ポルトガルはここに商館を築きます。そしてほどなくマラッカ王国を訪問。「なかなかいい場所だ、ここを奪ってやろう」と考えたポルトガルのインド副王アフフォンソ・デ・アルクブケは、1511年、16隻の大艦隊を率いてここを占領します。
狙いは香料ですから、引き続き産地であるマルク諸島のテルナテ王に艦隊を送り、これを要求し大量の香料を手に入れる一方、マラッカとは対立関係にあったアユタヤ朝と、ビルマのペグー朝には米をマラッカに供給してもらえるよう依頼します。
ところが、マラッカ王国は首都を占領されただけで滅んだわけではありません。南へ遷都しジョホール王国を名乗り引き続き活動。ジョホールは、今のシンガポールの向かい側にあります。またイスラム商人は敵対するキリスト教の支配するポルトガル領マラッカに近寄るわけもなく、ジョホール王国や、インドネシアに登場したアチェ王国と手を組んで貿易を継続していきます。その他、コショウの産地を押さえた西ジャワのスンダ国、スマトラ東端のパンテン国、こうした国々によって、東南アジア貿易はさらに拡大していきます。
一方でポルトガルは衰退。ヴェネツィアに香料が流れないよう、インドを押さえていたのですが、それの支配力が弱まり、流通が始まり、ヴェネツィアと価格競争をするハメに。しかも、元々ポルトガルは人口100万〜140万人なのに、毎年4000人の男性をインド洋に派遣し、しかも多くは途中で死んでしまう。慢性的な人員不足に悩まされ、さらにインドに設立したインド会社は、国営企業のため、役人が不正に私腹を肥やし、教会ですら同様という始末。
一時は、日本にまで貿易の手を広げた者の、キリスト教を布教しようとして追い出され、さらに1622年にはペルシャ湾のホルムズがイギリスに、マラッカがオランダに占領され(1641年)、シェアを大きく失ってしましました。
余談。
アルクブケはリスボン近くの下級貴族出身。1508年にインド副王(総督)に任命されるも、クビになるのを拒んだ前任者に投獄され、本国に救援されるという波乱なスタートを切っています。彼は戦闘巧みで、「ポルトガルの軍神」と呼ばれましたが、厳格な性格から政敵が多く、1515年、政争によって国王マヌエル1世に罷免され、帰国の途中ゴアで亡くなるという生涯を送っています。
もう一つ余談。
ジョホール王国は、その後も繁栄を続けるも、17〜18世紀に衰退。イギリスの支配下に入ります。しかし、国としてはその後も長く続き、一時は近代化も行われ、1948年にマラヤ連邦(現マレーシア)が発足すると、ここの1州となりました。現在も、ここには世襲制のスルタン(王)がいます。