第9回 アケメネス朝ペルシアとギリシャ(2)

●ペルシア戦争


ところが、そんな王に難題が発生。小アジアのミレトスにいたギリシア人達が、反乱を起こしたのです。まあ、これはペルシアの対外拡大政策が仇となった物です。

 ちなみに、詳しくはヨーロッパ史をご覧になっていただきたいですが、当時のギリシアはポリスという都市国家に分かれていました。代表的なのがアテネ、スパルタ。その他に、対外的に植民市を持っていて、その中の一つが小アジアのミレトス。 ここが、反乱を起こします。それだけなら良かったのですが、反乱をアテネが支援した事が、ダレイオスの逆鱗に触れました。ちなみに、この反乱はギリシアの敗北。前494年、ラデ島沖の戦いで反乱軍は大敗を喫します。  さあ、当然待っているのはペルシアによる報復攻撃です。ダレイオスはギリシャに向けて遠征を開始します。総大将は彼の甥、マルドニオス。マケドニアなど東部ヨーロッパ征服をした人物です。
 これが、第1次ペルシャ戦争。しかし、アトス岬沖で大しけに遭い、そのまま撤退ということに。もっともこの時はペルシャも力を入れていなかったから、まあよしのようでした。しかし、前490年、今度は本格的に遠征を開始します。ところがこれはアテネの貴族ミルティアデス指揮する重装歩兵軍により、マラトンで大敗を喫します。勝敗を分けたのは武装の違い。アテネは長い槍と重武装。一方、ペルシア軍側は遠征ということもあり短い槍、軽武装というもの。しかも地の利はアテネにあります。これでは話になりません。
 ちなみにこの時、「勝ったよ〜」と伝令が42kmを走り抜き、アテネにたどり着いたことがマラソンの名称と競技の由来。一般には史実ではないとされていますが・・・・。結局ペルシアは、支配下にあったエジプトがこれを聞いて「ペルシアも怖くねーな」と起こした反乱の討伐もしなくてはならなくなり、ダレイオス1世の死後にリベンジすることになります。
 前480年、第3次ペルシア戦争。今度は、ペルシアは本気です。ダレイオスの子、クセルクセス1世(前486〜465年)が、1207隻の軍船を率い、自ら遠征を行います。途中、スパルタの軍勢をコテンパンに打ち破り意気揚々。宿敵アテネに迫ります。
 これに対しアテネ側は、まず婦女子をサラミス島に非難させ、さらに戦闘員たる男達も逃げるそぶりを見せます。ペルシア軍は、当然追ってきます。ところがこれは作戦。こうしてアテネ軍は、狭いサラミス水道にペルシア軍大艦隊を誘い込みます。大艦隊ですから、狭いと身動きがとれない。そこで、アテネは自らの水軍で各個撃破してしまいました。これがサラミスの海戦です。
 その後、小競り合いが続きますが、ペルシアは敗北をし続け、さすがのペルシアもあきらめ、「カリアスの和約」が結ばれ、イオニア地方の独立が承認されました。だけでなく、ヨーロッパ支配の夢も絶たれることになったのです。とはいえ、強大なペルシアにとってペルシア戦争敗北は、ちょっとした失敗にすぎないことでした。
 むしろその理由は以下の通り。それは、ダレイオス1世死後に起こった宮廷内での争いです。自らギリシャ遠征を行ったクセルクス1世は皇太子のダレイオスに殺されます。ところが、皇太子ダレイオスもまた殺されます。カリアスの和訳を結んだ時に国王は、その弟アルタクセルス1世ですが、彼自身はともかく、その後はまたまた皇族の皇位継承争いが行われます。前336に即位したダレイオス3世までひたすらお互いを暗殺しあい、そして前330年、ギリシアを統一したアレクサンダー大王の猛攻により、ペルシアは滅亡してしまいました。

 ですが、この王家の内紛の中、アケメネス朝の統治機構はきちんと機能していました。それだけ、ダレイオス1世の考案した統治システムが優れていたと言う事でしょう。

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