第14回 ビザンツとササンとパルミラと・・・

○今回の年表

226年 パルティアの滅亡、ササン朝の建国。
前332年 アレクサンドロス3世、エジプトを征服し、アレクサンドリアを建設。
前330年 アケメネス朝ペルシア、滅亡。
前323年 アレクサンドロス3世死去。後継者争いの勃発。
前317年 インドでマウリア朝が成立。
前312年 セレコウス朝シリアの建国。
前306年 プトレマイオス朝エジプトの建国。
前272年 ローマ共和国、イタリア半島を統一。
前248年 パルティア王国の建国。
前129年 パルティア、新都クテシフォンを造営。
162年 ローマ帝国、パルティアを滅ぼす。

○両者の狭間で・・・


 ところで、今まで大国の動きを述べてきましたが、その他にも小さい交易都市国家もあります。特に有名なのが今のシリアにある、パルミラです。パルティアとローマの中継貿易に活躍し、3世紀頃にローマの植民市として重要な位置を占めます。

 ここの時代まではローマの一都市でしたが、ローマ帝国が軍人皇帝時代(シャープール1世に捕まったヴァレリアヌスの頃)で混乱をすると、独立へ動き出します。

 パルミラの首長オダナイトは、独自の弓兵を率いて、シャープール1世を撃退! これによってオダナイトは、ローマから褒美として東方領行政総監督官の称号を与えられ、シリア支配を黙認され、 またパルティアの後継者を自認します。ところが、267年に彼は暗殺されてしまいます。
 
 すると、オダナイトの妻・ゼノビアは、「これはチャンス!」と幼い息子を王にたて、自分は摂政として実権を握ります。そして、ローマから完全な独立を狙い、小アジアの一部と、北エジプトを征服します。このときローマは、ゲルマン民族の移動に悩まされ、有効な手が打てませんでした。

 しかし、そうはいってもいつまでも見過ごすわけにはいかない。ゼノビアがアウグスタ(女皇帝)を名乗ると、勝手に皇帝を名乗るな!と、ローマ皇帝アウレリウスが遠征を開始。272年、パルミラは破壊され、ゼノビアは捕らえられました。まさに、一瞬の輝きでした。でも、大国相手によく頑張ったじゃありませんか。

○ビザンツ帝国の登場

 395年、東西に延びたローマ帝国は、もはや全域での一元的な支配ができなくなり、協議の末に2つに分裂することにしました。いわゆる、東ローマ帝国西ローマ帝国です。もっとも、東ローマ帝国の感覚では、自分たちが「ローマ帝国」で、西ローマ帝国は格下といったところだったようです。実際、国力を見ると東ローマ帝国の方が上で、西ローマはそれから程なく滅亡します。

 東ローマ帝国はまた、別名をビザンツ帝国と言います。しかし、これは首都コンスタンティノープルの旧名:ビサンティウムからとった名前で、後世の歴史家が呼んだもの。繰り返しますが、ビザンツの人達は、あくまで「ローマ帝国」と自分たちを認識しています。もっとも、場所を見ればわかる通り、ローマ人ではなく、ギリシア人たちの国家ですが。ここでは、ほかの本には倣わず、東ローマ帝国と呼びます。ササン朝は、この東ローマ帝国とも引き続き戦います。

 戦いは、ササン朝のキリスト教迫害をきっかけに行われることもあり、一方でキリスト教内で異端とされたネストリウス派などはササン朝に保護されることもあるという複雑な構図も生まれました。ちなみにネストリウス派は、景教という名前で中国にも伝わっています。またこの頃、両国の境界にあるアルメニアでは、アルメニア文字制作や、独自のキリスト教などの動きを見せたため、ササン朝によって征服され、ゾロアスター教を強制させられています。

○ホスロー1世とユスティニアヌス

 530年、東ローマ帝国は、弱冠25歳のペリサリウス将軍により、ダラの戦いで4万のペルシア軍を2万5000で打ち破ります。この時のペルシア王カワード1世(位488〜531年)は「こりゃあ敵わねぇな」と感じ、和議を結ぶことにします。ところが、脳卒中で死去。この王は、マスダク教を信仰し、それがために暗殺されたの疑いもあることは先ほど述べましたね。
 その後を継いだのはホスロー1世(位531〜579年)です。ササン朝の最盛期を作り上げた人物で、領土を中央アジアにまで拡大させ、また文化の保護にも力を入れ、東ローマ帝国では異端とされたギリシア哲学を保護し、発展させたことで有名な王です。この王は、当時、重税によって放棄した住民たちによるニカの反乱で苦しむ、時の皇帝ユスティニアヌスに対して和議を申し込みます。

 532年に、お互いが占領地を割譲したり、軍司令部を撤退したりと譲り合う形で批准されました。ただ、東ローマ帝国はササン朝に対し、1万1000ポンドの金貨を払うことになります。金で買われた和平でした。その代わり、ユスティニアヌスは、自身の夢であるローマ奪還(当時、ゲルマン人が支配していた)と西ヨーロッパ侵攻に力を入れることが出来、一時的ではありますがかつてのローマ帝国に近い領土を確保することが出来ました。

 この和平は、540年にホスロー1世が破りますが、その後545年に休戦条約が結ばれ、2度の延長の末「50年の和平条約」を締結して戦争を終結させました。この時商業に関する取り決めも行われています。実は、商人がこの辺りを良く往来していたのです。そういった意味でも、戦争はさけた方が無難。ただし、東ローマ帝国は、毎年3万枚の金貨を払わされることになりました・・・。これは、財政に重くのしかかります。

 しかし、同盟は基本的にユスティニアヌスの没年まで続くことになりました。と、いうことは・・・ユスティニアヌスの死後、問題が発生したという意味で、再び抗争が開始されました。今回は省略しますが、ササン朝はエフタルという中央アジアの遊牧民とも随分抗争したんです。

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