第17回 預言者ムハンマドの後継者は?

○今回の年表

632年 ムハンマド、死去。アブー・バクルが初代カリフに。
642年 ニハーヴァンドの戦いで、イスラム軍がササン朝軍に大勝する。
645年 (日本)大化の改新が起こり、蘇我氏が排除される。
650年頃 『コーラン』が今の形に編纂される。
651年 ササン朝ペルシアが滅亡。
661年 第4代カリフのアリーが暗殺され、シリア総督のムアーィアがウマイヤ朝を開く。
680年 アリーの息子で、シーア派の盟主だったフサインがウマイヤ朝軍に殺害される。
690年 中国で武則天が即位。中国史唯一の女帝で、自ら「周」王朝を開くが、死後は唐に戻る。
711年 ウマイヤ朝、西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を占領。
712年 唐で李隆基が即位(玄宗)。開元の治を行う。
732年 フランス南部のトゥール・ポワティエ間の戦いで、ウマイヤ朝軍がフランク王国に敗北。

○分裂の危機!しかし・・


 ムハンマドが死去。当然後継者選びですが、アブー・バクル(位632〜634年)という人物が初代カリフ(神の使徒の代理)という役職に就くことになって、後継者になりました。が、多くはムハンマドとは盟約は結んだが、アブー・バクルとは関係ないと昔からの伝統で離反し、特にアラビア南部のヤマーマ地方では、ムサイリマという人物が預言者を名乗り、多くの支持を集め強大でした。

 これを黙ってみているわけにはいかないアブー・バクルは633年、ハーリド・ブン・アルワリード率いる部隊でこれを討伐、大きく名声を上げ、以後はアブー・バクルの下に統一されるようになりました。同時に対外征服戦争である聖戦(ジハード)も開始され、東ローマ(ビザンツ)帝国、ササン朝ペルシアと戦います。両者は互いに争っていて、疲弊していました。

 そんなこともあり、アルワリード率いる部隊は東ローマ帝国領シリアを占領。東ローマ皇帝ヘラクレリウスの「おおシリアよ、汝は敵にとってなんとうるわしい国であることか」という言葉は有名です。そして、同じく東ローマ領エジプトも征服され、一方642年にはニハーヴァンドの戦いで、サード率いる部隊がササン朝軍を撃破!これがきっかけで、651年にササン朝は崩壊し滅亡しました。また、この頃に「コーラン」が今のような形で成立しました。また、634年には2代目カリフにウマル1世(位634〜644年)が選ばれました。

 こうして、古代オリエントから続いてきた世界は崩壊し、イスラムという全く新しい文明が成立していきます。

 ところで、アブー・バクルからの4人のカリフを正統カリフと言います。が、3代目のウスマーン(位644〜656年 ムハンマドの娘ルカイヤの婿)は不満分子に暗殺され、4代目のアリー(位656〜661年 ムハンマドの娘ファティマの婿)も、過激なハワーリジュ派によって暗殺されてしまい、以後は、この混乱を鎮圧したシリア総督ムアーウィアウマイヤ朝をひらき、後継者には息子であるヤズィードを指名。カリフの地位を世襲し、それまでの選挙制をやめます。また、首都を、ローマ帝国から奪取したシリアのダマスクスに定めます。なお、このウマイヤ朝による支配を、アラブ人を優遇したことからアラブ帝国ともいいます。

 一方、殺されたアリーの息子ハサン(624〜670年)は、カリフの位を放棄することを約束し、ウマイヤ朝から巨額のお金をもらって、一説には100回にもわたる結婚と離婚を繰り返したという馬鹿丸出しの生活を行い、身の安全をはかりました。 しかし、アリーの息子はハサンだけではありません。ハサンと対照的な選択をし悲劇の死を迎えた人物、それが弟のフサイン(626〜680年)です。

○フサインの悲劇

 ウマイヤ朝によるカリフ世襲。
 これに反対したのがシーア派です。シーア・アリー(アリーを支持する)の略で、彼らは予言者ムハンマドの娘婿たる第4代カリフ・アリーとその子孫にカリフ継承権があると主張しました。一方、大多数のイスラム教徒はスンナ派(スンナ=慣例 ムハンマドの慣例に従うと言うこと)と呼ばれるようになり、こちらはウマイヤ朝を支持。結局スンナ派がイスラム教では圧倒的多数となります。

 そのためシーア派の人達、そのなかでもイラクの州都クーファの人達は、フサインに私達と立ち上がってくれと何度も要請。フサインはこの申し出に賛成し、ムアーウィアが死に、ヤズィードがカリフに就任すると、住んでいたメッカを抜け出し、クーファへ合流しに向かいます。680年のことです。彼は60歳を超えていましたから、最後に一旗あげようと考えたのかもしれません。

 ところが、ヤズィードはこの動きを察知。まずクーファ対策には、ウバイド・アッラーフを総督にして住民を押さえつける。一方で4000人の兵士を動員し、わずか70人で行動中だったフサインにカルバラで攻撃を仕掛けます。ここで、フサインは殺害されました。

 シーア派の人達から見ると、フサインは自分たちから誘っておきながら何一つ支援できずに見殺しにしてしまったわけで、大きな罪悪感を伴う衝撃になりました。そのため今に至るまで、まるで昨日フサインが死んだかのような哀悼のお祭りをするそうです。・・・余談ですが、カルバラと言えばイラク戦争でもナジャフなどと共によく登場した地名ですね。

○ウマイヤ朝の拡大


 さて、ウマイヤ朝は、この他にも数々の反乱の鎮圧を行います。特に大きいのが2つあって、1つが、683〜692年におこった、イブン・アッズバイルによる反乱。この人物は、初代カリフ・アブー・バクルの孫(詳しく言うと、バクルの娘と、預言者ムハンマドの教友ズバイルとの子)。

 2つめが685年には、またもクーファでの反乱。過激シーア派がフサインの異母兄弟であるムハンマドが救世主(マフディー)として担ぎだし、2年にわたり抵抗が行います。

 しかし、ウマイヤ朝第5代のアブド・アルマリク(位685〜705年)の時に、ほぼ秩序は安定。ちなみにクーファのムハンマドを討伐したのは、先ほどより反乱を起こしているアッズバイルの弟だったりします。世の中って複雑。 

 ともあれ、おきまりの中央集権化が進められ、貨幣の発行とアラビア語の公用語化が行われました。これによって、次第に昔から使われていた現地の言葉(ギリシア語とか、アラム語とか・・・)が消えていき、オリエントがアラブ化します。

 そしてその息子のワリードの治世では、更に対外的に領土を拡張。東は中央アジアまで、西は北アフリカを征服し、さらにベルベル人の協力でジブラルタル海峡を渡り、711年、この地にあったゲルマン人国家西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を征服。ワリード死後には、今のフランスであるフランク王国に侵攻しましたが、これはフランス南部のトゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテル率いるフランク王国軍の前に敗北しました。

 ウマイヤ朝側にとっては、この敗北は「そろそろこの辺で征服もやめておくか」程度のものでしたが、ヨーロッパから見るとイスラム化されるかされないかの瀬戸際という大きな一戦でした。

 このように、一見して順調に見えたウマイヤ朝。しかし、何事においてもアラブ人優位だったウマイヤ朝に対し、次第に人々のアラブ人、ウマイヤ朝に対する不満が蓄積していました。


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