1506年 4月7日 |
現スペインにあるナバラ王国のサビエル城に誕生する。 |
1515年 6月11日 |
スペインがナバラ王国を併合。父、帰天。 |
1516年 |
サビエル城が破壊される。 |
1521年 |
フランスがスペイン介入。ナバラ、フランス連合軍とスペインが戦う。兄達は後のサビエルの同僚となるスペインの守備軍の武将イグナチオ・デ・ロヨラと戦う。
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1524年 |
サビエル城再建。 |
1525年 9月 |
パリのソルボンヌ大学の聖バルバラ学院に入学(19歳)。 |
1530年 |
哲学教授の資格を得る。 |
1533年 |
イグナチオ・デ・ロヨラの感化をうけその仲間に入る。その後、モンマルトルの丘で一生をキリストとその福音のために捧げることを誓う。(事実上イエズス会結成)
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1534年 |
神学を学び始める(1536年まで)。 |
1537年 |
ベネチアの地で司祭叙階。この年、イグナチオが仲間のグループを「イエズス会」と名付ける。 |
1539年 |
イグナチオの秘書となる、イエズス会がローマ教皇に口頭で承認される。 |
1540年 |
インドへの派遣を命じられる。リスボンやパルマ、アルメーリンなどで司牧活動を行う。イエズス会はこの年、修道会としてローマ教皇により公認。 |
1542年 |
ゴアに到着。 |
1545年 |
マラッカに着く。そこで、日本人ヤジロウと出会う。 |
1548年 |
日本渡航を決める。ゴアでヤジロウ他二名の日本人の洗礼。 |
1549年 |
マラッカからアヴァン(あだ名は海賊)という中国商人のジャンク船に乗り、鹿児島へ。同年、鹿児島領主・島津貴久に謁見、布教許可を得る。日本での滞在報告記を書く。
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1550年 |
平戸へ行くが、すぐに鹿児島へ引き返す。再び平戸へ行き、領主・松浦隆信より宣教の許可を得る。その後山口へ行き、領主大内義隆に引見される。
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1551年 |
京都に到着。天皇への謁見。比叡山延暦寺の学問所訪問、ともに果たせず、都を去り山口へ。そこで、大内義隆から宣教の許可を得、厚い保護を受ける。その後、豊後領主・大友義鎮(宋麟)の招きに応じ、山口を去る。
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同年11月 |
日本を去る。 |
同年12月24日 |
シンガポールに到着。インド管区長に任命されたことを知る。 |
同年12月末 |
マラッカ到着。3日後ゴアへ向け出帆。 |
1552年 2月中旬 |
日本人一行を伴いゴアへ帰着。 |
同年4月17日 |
中国へ向けてゴアを出発。 |
同年5月下旬 |
マラッカに到着 |
同年7月 |
中国へ向けてシンガポールを出発。 |
同年8月 |
サンチャン港へつき中国へ渡航の方法を考えるが病に倒れる。 |
同年12月 |
サビエル死去。サンチャン島に仮埋葬。 |
1554年 3月 |
遺体はゴアに着き安置される。 |
1619年10月25日 |
教皇パウロ5世により列福される。 |
1622年 3月12日 |
イグナチオとともに教皇グレゴリオ15世により列聖。
金好 いかがかな。ザビエルに関する年表を見たことのない人も多いと思う。特に、前半生については日本ではほとんど知られていない。なお、参考資料は山口サビエル記念聖堂で買える年表からじゃ。
荒谷 残念なこと。ここで注目してほしいのは、ザビエルはスペイン人ではないということ。といいますか、スペイン建国より間もないころですので、スペイン人そのものの定義が曖昧なの。ただ、ザビエル達のいたナバラ王国の地域の人は、今でもバスク人と言われている。一説によるとクロマニョン人の末裔とか。
金好 さて、このザビエルについての話は、わたしが高校生のころ山口県立徳山高校地理歴史部のメンバーとして、みんなでやったもので、本当ならなるべくオリジナルの話を書き加えたかったのだが、まあせっかくだから原文そのままで載せてしまおうと思う。なお、高校生だからといってなめてはいかん。これでも、歴史教育者協議会などから高い評価を受けており、文部科学省の始める総合教育の先駆けと目されたのです。出典は「発見新事実〜地理歴史部5年間の歩み〜」という本です。書店には並んでいないので、私を通じて山口県立徳山高校教諭・藤村泰夫に問い合わせるか、また、かなり量が多いが裏辺研究所からeメールで送ることも可能です。
量が多いため、次のページへ
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