第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 序章2 太平洋戦争勃発とヒトラーのユダヤ人虐殺

担当:林梅雪
●今回の流れ  さて第2回目となる今回は、太平洋戦争勃発と、それに伴い、もはや英米に勝利できないことを悟ったヒトラーの戦争目的の変化、つまりユダヤ人の「最終的解決」について解説していきたいと思います。

●日中戦争の開始と太平洋戦争への道  1937年7月7日の盧溝橋事件を期に日中戦争が勃発しました。日本政府・軍部はこの戦争について楽観的で、当時の陸軍大臣杉山 元は「約4ヶ月で事変を解決する見込み」だと天皇に報告します。強力な一撃を加えれば、中国は屈服すると思っていたのです。

 しかし戦争終結の見通しはたたず、戦争は長期化しついに太平洋戦争へと拡大します。この時参謀総長であった杉山 元は、今度は「太平洋戦争は5ヶ月で終了の見込み」だなどと天皇に報告しました。これに対し天皇は「戦争が主で外交が従のようである。支那事変(日中戦争)の時も(杉山は)4ヶ月くらいで片がつくと言いながら、4年たっても終わらない。支那の奥地が広いというなら、太平洋はさらに広いはず」と深い憂慮の気持ちを述べられ、杉山はこれに対し何も言えなかったといいます。

 1941年10月、近衛文麿に代わって陸軍大将東条英機が首相となりました。東条英機といえば太平洋戦争開戦の積極論者と言われていますが、実際はそうでもなかったらしく、最後まで日米交渉に解決の糸口を求めようとしていたようです。しかし、例の杉山参謀総長を始めとする参謀本部の積極論に押され、やむなく開戦に踏み切ったのが真相だといわれています。

 ちなみに東条英機は開戦の際、「人間は一生に一度、清水(寺)の舞台から飛び降りなくては…。」と述べています。

 ところで日本政府は、アメリカに勝利できると考えていたのでしょうか? 政府は1941年11月15日の大本営政府連絡会議で、「独伊ト提携シテ先ヅ英ノ屈服ヲ図リ米ノ戦争意志ヲ喪失セシムルニ勉ム」ことを決定しました。つまり他力本願で、独伊がイギリスを負かしアメリカの戦意喪失を待つということであります。

 しかし第一回のヨーロッパ戦線の項で見たように、ドイツはイギリスを屈服させることはできず、イギリスの戦意を挫くために1941年6月22日にソ連に侵攻しました。だがその独ソ戦も、早すぎるロシアの冬の到来によって、ドイツ軍はモスクワを目前にしながら撤退を余儀なくされるのです。

●真珠湾攻撃  ドイツ軍が撤退を開始した1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を行います。

 日本は真珠湾攻撃の30分前に、アメリカに対して交渉打ち切り通告を渡そうと考えていましたが、在米大使館の手落ちで実際は1時間後になってしまいました。このことがアメリカ側に奇襲であるという口実を与え、F・ルーズベルト大統領の「リメンバーパールハーバー(真珠湾を忘れるな)」演説につながったのであります。

 ただ、事前にルーズベルトが真珠湾奇襲を知っていて何の指示も出さなかったという説もあります。いずれにしても不意をうたれたアメリカ側は戦艦4隻を失うなど手痛い打撃を受けましたが、日本側が驚いた事に、なんとアメリカ軍の空母は不在でした。しかしこの時は、奇襲の大きすぎる成功が小さな誤算を打ち消したのです。

●ヒトラーの対米宣戦とホロコースト  1941年12月11日、ドイツのヒトラー総統は「日独伊三国軍事同盟に従い」アメリカに宣戦布告しました。しかし日独伊三国同盟はいわゆる防衛同盟で、アメリカが日本を攻撃した場合でないかぎりドイツの参戦義務はないのです。事実ドイツのソ連侵攻の際、日本は対ソ戦に加わっていません。

 ではなぜ、危険なリスクをおかしてまでヒトラーは、ドイツ国防軍がソビエト戦線で苦戦していたにも関わらず、アメリカに宣戦布告をしたのでしょうか?

 実はヒトラーの生涯での目的は、「東方(ソ連)にドイツ民族の生存権を拡大すること。(つまりドイツ人を東方に入植させること)」と「(ヨーロッパにおける)ユダヤ人の根絶」でした。それは、ヒトラーの著わした『我が闘争』を読んでも明らかです。

 頭の回転の早いヒトラーは真珠湾攻撃の時点で、既にこの戦争(第二次世界大戦)に勝利できないことに気づきます。つまり「東方にドイツ人の生存権を拡大する」望みは絶たれたのです。そしてヒトラーは、もう一つの目的である「ユダヤ人根絶」に本腰を入れるようになります。

 翌1942年1月、ヒトラーの意をうけたナチス高官がヴァンゼー会議を開催し、「ユダヤ人の最終的解決」を決定します。
「最終的解決」とは何ともあいまいな言葉ですが、つまりはユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を意味します。ヒトラーの目的が「領土拡大」から「ユダヤ人根絶」に移ったことで、第二次世界大戦はさらに悪夢の様相を帯びるようになるのです。

 で、ここではホロコーストについて、具体的に触れていきましょう。ヴァンゼー会議以前、ナチスによるユダヤ人への弾圧は主にユダヤ人を「隔離」することでした。国外追放したり、ゲットーと呼ばれるユダヤ人隔離地区を設けたり(ゲットーには飢餓と伝染病が蔓延し、多くの人が命を落とした)します。

 ところが驚くべきことに、ユダヤ人の大量虐殺を指揮したことで有名なアドルフ・アイヒマンは、シオニスト運動(パレスチナにユダヤ人の国をつくる運動)に共鳴し、パレスチナでユダヤ人と対立するアラブ人指導者との会見を試みようとするなど、ユダヤ人の国建設のために努力します。

 また大戦初期には、仏領マダガスカルにドイツの管理下でユダヤ人の国を創設する計画(マダガスカル計画)も検討されるなど、隔離を主としたユダヤ人弾圧が押し進められています。

 しかしヴァンゼー会議以降、ユダヤ人弾圧は隔離から本格的な抹殺へと変わります。処刑方法も、それまでは銃殺や絞首刑によるものでしたが、効率が悪く、銃殺を担当するコマンド部の能力も限界に達し、ヴァンゼー会議以降、毒ガスによる効率的な大量虐殺が考案、実行され始めます。

 毒ガスによる殺害は、最初のうち車の排気ガスを使用して行われましたが、後に殺虫剤として使われていたチクロンBが、最も効力を持っているとして使われ始めます。そしてユダヤ人の収容、処刑が行われたのが強制収容所でした。その代表がポーランドにあるアウシュヴィッツ強制収容所です。

 ナチスはユダヤ人の虐殺を円滑にするため、様々な偽装工作を行います。ユダヤ人は捕らえられると、家畜用の貨物列車で各強制収容所に送られます。輸送を担当したのはドイツ国有鉄道で、乗車運賃も決まっており一人あたり4kmで4ペニヒでした。

 強制収容所の駅で降りたユダヤ人達が線路を見ると、線路がくねってまだまだ先に続いています。こう見ると、まるでそこが終点ではなく、まだまだ先に進むのだとユダヤ人達は思いますが、実際はユダヤ人達の視界が消えた所で線路はぷっつり切れているのです。

 強制収容所の入口には医師が待っていて、列を二つに分けます。ここでユダヤ人は、女子供や老人と労働力があると思われる男性の二組に分けられるのです。これを選別といいます。選別を担当した医師の一人メンゲレ博士の選別の仕方は、オーケストラを指揮する指揮者のようだったと言われています。

 メンゲレはユダヤ人の母親に言います。
「奥さん、奥さんは長旅でお疲れでしょうからお子さんを保育園にお預けなさい。」
 その優しい言葉とは裏腹に、実は預けられた子供達の多くは人体実験の被害者となっていったのです。

 労働力ありと判断された人々には、死の労働が待っていました。一方、女子供や老人達は強制収容所内の大広間に連れて行かれます。そこには担当者が待っていてユダヤ人にこう告げました。「皆さんに一休みしていただいたら、是非働いてもらおうと思います。でもその前に、シャワーを浴びて来て下さい」。

 脱衣所で、人々はこう言われました。
「後で分かりやすいように、荷物をどこに置いたか覚えておくように」。

 最後の一人がシャワー室に入ると、外から扉が閉められます。脱衣所では金目の物の収集が始まり、シャワー室には上の窓からチクロンBが投げ込まれました・・・。一方でナチスは、国際的批判を受けることを恐れ、ホテルのような模範収容所を作り、赤十字に訪問させます。そこではユダヤ人達が、豊かな生活を送っていました。

 こうして徹底した計画性の下、ユダヤ人の大量虐殺は行われたのです。戦争末期、ヒトラーは「ヨーロッパからユダヤ人が排除されたことを、人々は永遠に感謝するだろう」と側近に述べています。ヒトラーがその強制収容所を訪問したことは、一度もありませんでした。

 なお、このようにナチスは組織的にユダヤ人殺戮を行いましたが、個人的な犯罪に対しては厳格でした。ブーフェンバルト強制収容所司令官だったカール・コッホは、個人的にユダヤ人を殺害した罪で絞首刑に処せられています。ともあれ太平洋戦争勃発とともに、第二次世界大戦は本格的な世界戦争に発展し、悪夢の様相をより一層呈していくのです。

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