●ヒトラー暗殺計画
一方のヨーロッパ戦線では、ついに連合軍がヨーロッパ奪還に動き出します。1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を計画、それに先立ち連合軍の上陸地点がどこであるかをドイツ側に特定させないために様々な工作を行い、ドイツ軍指導部を混乱させ、連合軍がカレーに上陸するのではないかという印象を与えます。
しかしヒトラーは、驚くべき直感により連合軍がノルマンディーに上陸することを見抜きます。ただ彼は、ノルマンディーに上陸するのが主力部隊かどうかを判断しかね、ノルマンディーに思い切って大部隊を投入できずにいました。
6月6日、連合軍はヒトラーの読み通りノルマンディーに上陸し、7月になりシェルブール港を陥落させます。この頃からようやくドイツ軍は、ノルマンディーへ部隊を転用し始めますが、もはやそれは遅すぎたのでした。
こうしてドイツ軍の敗北が時間の問題になる中、事件は起こります。一部の軍人がヒトラー暗殺を企図したのです。ヒトラーを暗殺しようとする試みは、過去に少なからず行われていましたが、時間通り爆弾が破裂しなかったり、ヒトラーの日程が急遽変更になったりで、なかなか成功しませんでした。しかも1944年初頭までに、反ヒトラー分子の要人は逮捕、或いは解任によりほぼ一掃されます。国防軍諜報部に所属していた反ヒトラー分子の一人カナリス提督は、ヒトラーの日程を把握できる立場にありましたが解任されたため、反ヒトラー分子は情報の取得が困難になりました。
ところが1944年7月1日、反ヒトラー分子の一人シュタウフェンベルク伯爵が、国内軍司令官であったフロム将軍の参謀長に任命されます。その結果シュタウフェンベルクは、総統司令部でヒトラーに近づくことができるようになりました。こうしてヒトラー暗殺計画が実行されます。
1944年7月20日午後12時37分、シュタウフェンベルクは5分後に破裂する時限爆弾の入ったカバンを持って、総統司令部の会議室に入りました。報告に目を通しているヒトラーから4m弱のところに、シュタウフェンベルクはカバンを置き、「用事を思い出したので電話をかけてきます」と言い残し会議室から辞します。彼はそのまま車に飛び乗り、総統司令部を後にしました。
12時42分、爆弾が破裂します。
シュタウフェンベルクはヒトラー他、総統司令部にいた全員の死を確信し、そのままベルリンに向かいます。
しかしヒトラーは重傷を負ったものの、奇跡的に助かっていました。爆弾破裂により総統司令部の窓と屋根は吹き飛び、数名が死亡、ヒトラーの頭髪にも火が燃えうつります。地獄の断末魔の中でヒトラーは、副官に対し「見てくれ、この制服は新調したばかりなのにこのざまだ」と虚勢をはって叫びました。
夕方ベルリンに着いたシュタウフェンベルクは、ヒトラーが生きていることを知り驚きます。彼は自身にも嫌疑がかかることを恐れた上官のフロム将軍により、まもなく銃殺されました。実はこの日、ヒトラーはムッソリーニと会談する予定でした。ヒトラーは時間を遅らせたものの、予定通りムッソリーニと会談します。驚くムッソリーニに対しヒトラーは「神が守ってくれたのだ」と上機嫌で語ります。
ほどなくして、ヒトラー暗殺計画に関与した人物がことごとく逮捕されました。国民的名声が高く「砂漠の狐」の異名をもつロンメル将軍は、この暗殺計画を知っていましたが、政治的な揉め事に巻き込まれるのを嫌い、関与はしませんでした。しかし、(恐らくヒトラーの意を受けた)将軍2人が、ロンメルを訪れ、裁判にかけられる可能性が高いことを告げます。まもなく不名誉を嫌うロンメルは、毒を仰ぎ自殺しました。ヒトラーは国民に対してロンメルは病死したと発表し、国葬を盛大に行いました。
さて逮捕された被告達は、人民法廷でフライスラー裁判長による裁判を受けます。反ヒトラー分子を厳粛に裁けという上層部の意向があったにも関わらず、フライスラーは異常ともいえる熱狂さで被告を責め、怒鳴りちらし裁判を進行しました。それに対し被告達の態度はどこまでも冷静沈着で紳士的だったので、かえって被告達のまともさを強調する結果となり、裁判に関する報道はその多くが制限されることになります。
いずれにせよ裁判は短期間で結審し、関係者は根こそぎ逮捕され銃殺或いはピアノ線での絞首刑に処せられました。ヒトラーは首謀者の処刑をビデオで記録させ、処刑シーンを家庭用映写機で夜を徹して見続けたといわれています。
ヒトラー暗殺未遂事件以後、ヒトラーはますます疑心暗鬼に陥るようになり、一部の側近と、愛犬ブロンディしか信用しないようになりました。また、この暗殺未遂のショックからか、大量の薬物を服用していたためか、彼はパーキンソン氏病に侵され、左手が絶えず痙攣、いずれにしても10年は生きられない体となります。
また、右手は暗殺未遂事件で負傷し左手は痙攣していたためろくに食事ができず、スープ等が軍服を汚してしまい、見るも無残な姿となり、一方喉もとで剃刀を使われるのも恐ろしくなり、髭も自ら剃るようになりましたが、手が痙攣するためうまく剃れず、無精ひげとなり、腰は曲がり、体臭はきつくなりました。晩年のヒトラーはまさに廃人同然であったといわれています。