●敗軍の将達は・・・
今回は、ヒトラーの側近達がドイツ降伏後にどうなったかについて御紹介します。
1945年4月30日、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラー総統は、新妻エヴァ・ヒトラーと共にベルリンの総統地下壕で自殺します。さらに翌5月1日、ヒトラーの側近で後継首相に指名されていたヨゼフ・ゲッベルス宣伝相も、子供6人と妻を道連れに総統地下壕で自殺しました。
残りの側近や使用人は総統地下壕から逃走を開始しますが、ほとんどがソ連軍に拘束されました。そして、ヒトラーにより後継ナチス党党首に指名されていたマルティン・ボルマン総統官房長は、脱出中行方不明となり、翌年のニュルンベルク軍事裁判では欠席のまま死刑判決を受けていましたが、1972年にベルリン市内で遺骨が発見され、脱出中に死亡(爆死)していたことが明らかとなります。
5月1日22時20分、北ドイツにいた後継大統領カール・デーニッツ海軍大元帥は、ラジオ放送で「4月30日、ヒトラー総統は官邸前で一兵士として戦車と戦い、壮烈な戦死を遂げられた」と自殺を戦死にすりかえて発表。しかし、ドイツ国民のほとんどがヒトラーの死に興味や関心を示しませんでした。
反逆者としてすべての地位を剥奪され、SS(親衛隊)に自宅軟禁されていたヘルマン・ゲーリング国家元帥は、ブラウヒッチェ陸軍元帥をアメリカのアイゼンハワー将軍(のち大統領)のもとに急派し、SSからの保護を訴え、国家元帥として話し合いたいと申し出ましたが、完全に無視されます。ゲーリングはこの後捕虜となり、ニュルンベルク裁判に出廷。
同じく、反逆罪ですべての地位を剥奪された親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラー。
彼はデーニッツ新政府のもとに赴くも、ここでも厄介扱いされ、偽の身分証明書を持ち逃亡生活に入ります。しかし、ドイツ降伏後の5月23日逮捕。取調べで彼は自分がヒムラーであることを認め、その直後、隠し持っていた青酸カリを仰ぎ死亡しました。
その、デーニッツ新大統領は、ナチス色を薄めるためにヒトラーが遺言で指名した人物ではなく、自身で新閣僚を任命します。デーニッツはヒトラーの側近だったヨアヒム・フォン・リッベントロープ外相に電話をかけ、「新外相にふさわしい人物を推薦して欲しい」と、遠まわしに彼に罷免を言い渡します。
その結果、しばらくしてリッベントロープからデーニッツに電話がかかってきます。
ところが彼は「新外相にふさわしいのはヨアヒム・フォン・リッベントロープだ」と述べます。当然、この厚かましい要求は退けられ、新外相にはヒトラー内閣の閣僚であった貴族、シュベリン・フォン・クロージク伯爵が任命されています。
アルベルト・シュペーア軍需相は、ナチス党員でヒトラーの側近でしたが、優秀な人材であったため留任し、国民の食料と生活の維持のための実際的な計画に着手。
こうして新政府らしい形が出来上がり、デーニッツはイギリスのモントゴメリー陸軍元帥に降伏を申し出ました。なお、当初は英米だけと講和し、ソ連とは戦闘を続行しようとしたデーニッツでしたが、最終的には全面的降伏することに決定。
5月7日、ドイツは連合国への無条件降伏文書に署名し、ここにヨーロッパ戦線での戦闘は終結(ドイツ降伏)。ナチス・ドイツは名実ともに崩壊した。
●ニュルンベルク裁判と判決
ヒトラーの側近達は次々と逮捕され、21名がニュルンベルクで裁判にかけられた。裁判は、被告同士の罪のなすりあい、法廷戦略、また連合国側の不和などで混乱もみられたが、1946年9月に結審。11月には判決が下された。
ヘルマン・ゲーリング元国家元帥、ヨアヒム・フォン・リッベントロープ元外相、オーストリア元首相ザイス・インクヴァルトら11名は絞首刑(但し、ゲーリングは刑執行直前に服毒自殺)。ルドルフ・ヘス元総統代理ら3名は終身刑。ルドルフ・ヘスは長くドイツのシュパンダウ刑務所で服役しましたが、1987年に93歳で自殺しました(遺族は他殺説を主張)。
アルベルト・シュペーア元軍需相ら2名は禁固20年の刑、コンスタンティン・フォン・ノイラート元外相は禁固15年の刑、さらにカール・デーニッツ元大統領は禁固10年の刑を受け、1956年出獄、1980年に89歳でその生涯を閉じています。
一方、宣伝省のニュースキャスターに過ぎなかったが起訴されたハンス・フリッチェ、シャハト元財務相、フランツ・フォン・パーペン元首相は無罪判決を言い渡されます。パーペンは、1932年に首相を務め、ヒトラー内閣では副首相(後オーストリア、トルコ大使)を務めた人物です。
●逃亡者達
ナチス・ドイツ幹部の中には、逃亡機関の支援を受けて南米に逃亡する者もいました。ユダヤ人大量虐殺の責任者であったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡しましたが、1961年イスラエル諜報部に察知され逮捕。イスラエルに連行され、翌年処刑されています。
そして、アウシュヴィッツ強制収容所で残酷な人体実験を行った医師ヨセフ・メンゲレ博士も南米に逃れましたが、1979年にブラジルで溺死したといわれています。
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