第121回 F.ベーコンと甘く危険な哲学者達
担当:裏辺金好
今回はちょいと趣向を変えまして、哲学者の話でございます。
と、そこ、逃げないように!別に私だって哲学なんてそんなに興味はないんですし、専門家じゃないです。そもそも、哲学者とは何か?と言われると、極めて曖昧な解答しかできません。一応私の中では、人間と社会との関係についての思想を言っている人全般を指す(
とすると、社会学者との線引きが難しいけど、哲学者の方が抽象的? )としてますが、別の人に訊いたら
「スーパーの特売日のことである」とか、
「仮面ライダーである」
「ヨン様LOVE」
「マツケンサンバ」
「ゴンザレス内藤」
と言う答えが返ってくるかも知れません。
真面目な話をすれば、頭のてっぺんから爪の先まで哲学者という人は少なく、ある一面で哲学的な思想を持った政治家、とか、裏辺所長の経営の哲学「勝てば官軍」と言った感じで、「この人は哲学者!」なんて言うのは無理。どうしても定義は曖昧になるのはやむを得ないところじゃないかなと思います。夏目漱石だって哲学者のコーナーで紹介されることもありますし。ほにゃららら、何だか最初から変な方向に話が行ったぞ。
まあ小難しい定義の話はさておき、手元にあった本を読んで「面白いなあ」と思ったことが結構あるわけでございます。特にさすがは哲学者様。実にスリリングな人生を歩む人がいまして、彼がどんなことを言ったかよりも、凄く面白い(なんじゃそりゃ〜)。てなわけで、今回は哲学の話ですが、2部構成です。
最初に紹介するのはフランシス・ベーコンという人で、この人は考え方が凄く感心できます。今を去ること400年ぐらい前の人ですが、読むとなかなか「納得」と言った感じなので、この人は真面目に紹介します。でも、死因が凄いのですが。で、続いてスリリングな人生を歩んだ哲学者達を、簡単に「どうスリリング」なのかを紹介します。抱腹絶倒間違いなし・・・かなあ。ともあれ、本を開けば難しい思想でぎっしりな哲学。ちょっと曲がった見方をしましょう〜。
フランシス・ベーコン(1561〜1626年)は、ロンドン生まれ。
エリザベス女王の下で、国璽相(こくじしょう)という最高官職を務めた人の子供として生まれ、自らも秀才だった超エリートです。
エリートなんだけど、それまでの哲学に反発し、学問に革新が必要だと考えます。しかも、親父さんが18歳で急死して極貧生活。のち、23歳で下院議員になるも臨時上納金反対演説という、読んで字のごとくのことをやってしまい、エリザベス女王に「あんた嫌い!」と言われ不遇に。ところが、ジェームズ1世には気に入られて出世。52歳で法務長官→大法官に。さらに57歳でヴェルラム男爵となります。
しか〜し、3年後に収賄罪で国会から告発され、ロンドン塔に幽閉。
幸いにもジェームズ1世から温情が来たために釈放されますが、ここに公職追放となってしまい、以後は法律や哲学、歴史、政治などの学問の道を究めます。ところが、その興味が非常に多岐にわたりすぎたためか、ある春の寒い日、
「冷凍技術があると便利である!」
と考え、外で鶏の腹に雪を詰めます。その結果、彼は風邪をひいてしまい、さらに肺炎となって病没しました。お〜ろろろ〜。
なお、春は別に誤植じゃないですからね。春にだって寒い日はあります。まして、イギリスですし。
とまあ、そう言う面白い人です。
が、この人、先ほども紹介しました通り、凄く重要なことを後世に伝えております。
別に怪獣の名前ではございません。
彼はですね、人間には偏見や先入観=イドラ(偶像)というのがあって、こいつのせいで、正しく自然状態(自分の目の前にある物)を理解することが出来ないと考えました。このイドラがあると、折角「研究の結果、これが真理である」と言われても、「そんなはずはない!」と答えを受け入れなかったりするわけ。その代表例が4つあります。
@種族のイドラ
人間が誰しも持ってしまう偏見・先入観のこと。
例えば、地球にいると、地球の周りを他の星が回っているように錯覚してしまいます(天動説)。
A洞窟のイドラ
個人的な性格や環境、経験などから発生する偏見・先入観のこと。
例えば、「井の中の蛙大海を知らず」。固定概念なんかもこれに含まれるでしょう。
洞窟というのは、自然の光を遮ったり弱めたりする個人的な穴のことです。
B市場のイドラ
言葉の不適切な使用によって生じる偏見・先入観のこと。噂なんかもこれに含まれます。人と人とが出会う場所、すなわち「市場」で使われる言葉というのは、人々を結びつける便利な媒体ですが、人によって理解力には差があり、さらに同じ言葉でも人によって解釈は違います。そのため、ここから誤解がしばしば生じて、様々な偏見が生じます。
C劇場のイドラ
伝統や権威ある学説などを、絶対的な物だ!と信じ切ってしまうことから生じる偏見・先入観。
なんで「劇場」というのかと言いますと、舞台上の芝居のように古い哲学は虚構、フィクションの世界を作り出してしまう、ということ。
ところが、これは仕方が無いというんですかね。
こんな偉大なことを言った彼も、ガリレオやケプラーと言った人達による近代科学がスタートしていたにも関わらず、錬金術や長命法と言った中世までの遺物に愛着を示していたと言われ、さらに前述のように立身出世を目標とし、汚職にも手を出していることから、特に19世紀から評価は真っ二つ、特にドイツから評判が悪く、哲学者ヘーゲルは汚職についても「性格が弱い」とバッサリ切り捨てています。個人的には、だからといってベーコンの功績を無視するというのは勿体ない話だなと思います。
あと2つは個人的には「ふ〜ん、なるほど」程度なのですが、一応有名なので紹介しておきます。
彼は、「イドラを排除した上で」どうやって思考を進めていくかについて、以下のように提唱します。
「裏辺所長は賢い」「持田所員も賢い」「馬藤所員も賢い」、これによって「裏辺研究所関係者は賢い」と言うことが証明できる。
う〜ん、どうなんでしょうかねえ。個人的には、こういう考え方はあまり納得がいかないのですが・・・。
ちなみに、これに対してデカルト(1596〜1650年 フランス人)は演繹法というのを提唱しています。
「裏辺研究所関係者は賢い」と言う事実がある、これによって「裏辺所長は賢い」「持田所員は賢い」「馬藤所員は賢い」
もっとも、これでは既に解りきったことをもう一度確認するだけのことであり、新しい発見は、あんまりありません。
なお、このデカルト先生。
1619年11月10日、ドイツ三十年戦争において旧教(カトリック)派軍に従軍していたときに
「霊感に満たされて驚くべき学問の基礎を発見した」&「夢に導かれて学問を独力で構築し直す使命感を固めた」
そうです。 え〜・・・。
あと、「我思う、ゆえに我あり」と言う、自分が存在する理由を端的に表した彼の言葉は、あまりにも有名ですね。
そしてベーコン先生。
こうした手法を使って、正しい知識を得て、力、すなわち知識を使いこなす技を身につけることによって、自然を支配・征服していくことが、人間の生活の改善・向上につながっていくのだ!と主張しました。自然を支配するといったところが、如何にもキリスト教的ですね。それでも、先ほどの劇場のイドラ、のように教会に縛られたスコラ哲学では駄目!と言っている次第であります。
さて、ちょいと小難しい話をしましたが、今からスリリングな人生を歩んだ哲学者達を見ていこうという、ちょいとゴシップ的な企画を始めます。