うどん・そば・そうめんの話 担当:裏辺金好
久し振りに、こんなネタを用意してみました。麺類では前回、ラーメンを取り上げましたが、今回は「うどん」・「そば」のお話です。普段何気なく食べている物の歴史を探ってみるのも、時には面白い物です。が、参考文献を色々当たっていると・・・うぅん、結構複雑だなぁ・・・。今回は歴史と、讃岐うどん、、きしめん、わんこそば、五色そうめんについてお届けします。半ば冗談で始めた企画ですが、なかなか書くのが難しいものでした。奥が深いですね。
まず麺類のルーツ。古代中国には小麦粉食品「餅(もち)」というのがあって、後漢の末期に小麦粉を練って煮て食べる湯餅(タンピン)が登場。これのヴァリエーションの一つとして麺類が誕生したといわれています。三国志の時代から六朝(中国・南朝)時代には、練り粉を手で伸ばして作る麺が食べられ、さらに唐の時代には麺棒で生地をのばし、包丁で切る「切り麺」が登場し、宋の時代には大体、今の中国で食べられる麺が大成されたと言われています。
色々調べてみましたが、実を言うとよく解らない。みんな、曖昧に書いてくれちゃっていますが、おそらく次のような感じです。
日本に「うどん」が伝えられたのは、讃岐国(高松県)の伝承では、遣唐使として唐に渡ったお坊さん・空海が伝えたと言われています。空海は長安の青龍寺で密教の修行を積みましたが、この寺を始め、各寺には麺料理専門の僧がいたそうです。
うどんと言えば、讃岐うどんがあまりに有名。一体、なんで讃岐でうどんなのか。 うどん王国さぬき発「麺の博物館」http://www.pref.kagawa.jp/menpaku/には、以下のようにあります。 江戸の中期(1713年)に出版された『和漢三才図絵』に「讃州丸亀の産を上とす」とあるように、讃岐の国では、古くから良質の小麦を産していました。また、昭和に入ってからも、香川県産の麦は、兵庫県産や岡山県産のものと並んで「三県麦」と称されるなど、全国的に高い評価を得ていました。これは、温暖で雨が少ないといった気候条件や土壌などが小麦の栽培に適していたからで、この質の良い小麦から、香りがよく、適度な粘りと弾力があり、しかも口当たりの良い「うどん」がつくられたわけです。 瀬戸内海沿岸では、古くから塩づくりが盛んで、19世紀のはじめには、全国で生産される塩の約90%を、十州塩田(讃岐をはじめとする瀬戸内海沿岸の塩田)産が占めていました。この十州塩田のなかでも、讃岐でつくられる塩は、赤穂(兵庫県)の塩と並んで特に良質とされていましたが、これは、海岸一帯の砂浜が長くて、遠浅で、潮の干満の差が大きく、さらに、一年を通じて雨が少ないなど、気候風土が塩づくりに最適であったからです。そして、この豊富で質の良い“塩”が「うどんづくり」の材料の一つになったのです。 (所長注:うどんは、食塩を溶かした水で、よく小麦粉をこねます) ちなみに、世界の麺の分類は、やはり同サイトのhttp://www.pref.kagawa.jp/menpaku/world/top_menu_wr.htmlにあります。これも併せて参照されると良いでしょう。所長、手抜き・・。
ちなみに、讃岐うどんの庄「かな泉」http://www.kanaizumi.co.jp/の場合・・・ 一、まず、店内に入って、うどんの大、または小の入った丼を取る。 (なぜか、そばも置いてある←自分の店なのに、こんな事書いている) 二、中のうどんをテボ(湯切りかご)で湯の中に入れ、自分で温め、 元の丼の中に戻す。 三、お気に入りの天ぷら、かき揚げ、きつねあげ等をのせる。 四、いなり寿司、おにぎり、おでん等を取る。 五、レジでお金を払う。 六、その後、ダシを入れ、好みで生姜・カツオ節を自由にのせて 出来上がり。 くどいようですが、これは開くまで一例。お店には行ったら、他の人がどのようにやっているか、観察するのが基本だそうです。
今でこそ、きしめんは平らな面ですが、初めは碁石のような丸い麺。そこで、棊子(=碁石)めんといわれた。呼び名だけがそのまま残ったようです。 この、棊子麺。水で練った小麦粉を薄くのばし、輪切りにした竹で押さえて丸く切り抜き、そして茹でる。これにきなこをつけて食べたそうです。この辺に、昔の「うどん」の原型をみられますね。 また江戸初期、尾張藩の藩主がキジの肉をうどんにいれさせたところ、味が気にいり、「きじめん」と命名して以来、作り方が広まったという俗説もあるようです。それが、その後、だんだんとキジの肉の代わりに油揚げをつかうようになり、庶民的な食べ物になっとか。尾張との繋がりでは、こっちの説の方が説得力あるような気もします。 (写真; Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001より)
東北地方は気候が厳しく、そのため土地が痩せていました。ゆえに、古来から稲の代用品として栽培しやすかったソバの栽培が盛んに行われました。そして、やはり切り麺が登場する江戸時代。盛岡藩主南部利直が江戸にでかけるとき、家臣たちは名物のそばを秀衡椀とよばれる藤原秀衡(1122〜87年 平安末期の奥州藤原氏3代目)にちなんだ塗りの椀にもってさしあげたのが始まり、といわれます。 これが、客にそばを沢山食べてもらおうと、次々蕎麦を器の中に盛るような「おもてなし料理」になり、今では1杯食べると、お給仕さんが、すぐに次の蕎麦を持ってくる形式になりました。もちろん、これに便乗して行われるマスコミの大食い選手権は異常ですが。 ちなみに、「わんこ」とは、「お椀」のこと。「こ」とは、東北地方の方言で、名詞の後によくつけるそうです。 ちなみに盛岡。蕎麦の他にも、「じゃじゃ麺」「盛岡冷麺」といった、盛岡独特にアレンジされた麺も存在します。 盛岡冷麺は、堅いコシが特徴。さらに、こってりとしたスープに、キムチまでのってくる、そう、朝鮮伝来の冷麺です。昭和28年誕生で、新しいもの。 詳しく知りたい方は、もりおかの観光 http://www.nnet.ne.jp/~morikan/title.html をご覧ください。宿泊予約も可能。
歴史は1635年。伊勢桑名藩主の松平定行が国替えで松山に転勤になりました。この時の従者・長門屋市兵衛が、松山でそうめんの商売を始めます。それから約90年後。長門屋の8代目の娘は、ある日お参りに行った時に、偶然まとわりついてきた5色の色をみて、親父にそうめんに色が付けられないか提案。 苦心の末、赤色は紅花から、黄色はクチナシ、濃紺は高菜、緑はクチナシと高菜のミックスで色を付けることに成功。8代将軍吉宗に絶賛され、さらに朝廷でも絶賛。これ以後、松山特産として大ヒットすることになりました。
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