リビアのカダフィ大佐って何者?
担当:裏辺金好
地図:外務省HPより |
2003年の年末になって、イラクのフセイン大統領が逮捕されるなど、国際政治もまさに師走の様相。
そんな中、ついにリビアのカダフィ大佐が、鎖国的な今までの方針から転換。2003年12月19日、ブッシュ大統領はホワイトハウスで声明を発表し、9カ月にわたる米英両国との交渉の末、リビアがすべての大量破壊兵器の廃棄を約束、国際機関による即時かつ無条件の査察受け入れに合意したことを明らかに。
リビア政府も同日、自らの意思で廃棄を決定したとの声明を発表し、カダフィ大佐が「勇気ある行動」と自画自賛し、「北朝鮮なども大量破壊兵器を手放すように」と迫る、というような状況になりました。
しかし、このカダフィ大佐。大佐なのに、なんで偉いのか? そもそも、この人何者?と言うような人も多くいらっしゃることと思います。そこで今回は、そんなリビア関連のお話。歴史研究所のコーナーにしようか、雑学万歳にしようか迷いましたが、雑学でお届けします。ちなみにリビアは、エジプトの左隣に存在します。知っていました?
(*なお、カダフィ大佐は2011年のリビア内戦によって、10月20日に殺害されています)
取り敢えず、雑学らしく、まずはここから。
カダフィ大佐の本名は
ムアマル・アル・カダフィ。1942年9月にリビアの遊牧民カダファ族の1人として生まれました。彼は、アラブ民族主義を説き、52年エジプト革命を起こしたエジプトの
ナセル陸軍大佐(革命後に大統領に就任)の思想に共感し、自らもリビアに於いて69年9月、無血クーデターで国内掌握。以後、リビア最高指導者として君臨し、色々な役職に就いていますが、79年からは、全ての行政上の役職を放棄。
じゃあ、肩書きはどうするのよ、と言えば、ナセルの「大佐」に憧れ、それ以後カダフィ大佐を名乗り、引き続きリビアのトップとして君臨しています。
そんなわけで、カダフィにとって、「大佐」という肩書きは、自分が尊敬する人物の輝かしい地位であるわけです。ちなみにカダフィ自身は革命当時、陸軍中尉でした。全然ちゃうやん。
さてさて、それではカダフィ大佐は、どのようにしてリビアの実権を握っていったのでしょうか。
そもそもリビア地域は、古代はフェニキア人植民地→カルタゴ→ローマ帝国&東ローマ・ビサンツ帝国→イスラム・アラブ系の色々な国→オスマン・トルコ帝国と支配者が次々と変わり、1912年にイタリアが占領します。そのため、第2次世界大戦では激戦地の1つとなり、戦後、フランスが統治。1949年にはリビアの独立が決定し、1950年に有力なキレナイカ部族首長で、この地域で大きな影響力のあるイスラム教サヌーシー派指導者・ムハンマド・イドリース・アッサヌーシーが、イドリース1世として国王に任命。
51年に憲法発布&独立の宣言、52年には選挙の実施&アラブ連盟へ加盟、55年に国際連合加盟と、国際社会の一員として登場していきます。ところが、そんな動きを苦々しく見ていた青年将校達が、1969年9月1日にクーデターを決行。トルコで療養中の国王イドリース1世を追放し、当時28歳のカダフィ陸軍大尉(→議長)を中心とする社会主義政権が誕生します。
このカダフィ政権は、国内では外国勢力の追放&国家による資本所有を実行。また、イスラエルで活動をするPLO(パレスティナ解放機構)への援助や、様々なイスラム過激派テロリストにも支援。また、アメリカとの関係は80年代に最悪に達し、81年にはアメリカ軍の航空機がリビアに侵入し、リビア空軍機2機を撃墜。これを契機に、互いに攻撃と報復を繰り返します。
特に大きな事件は、アメリカのレーガン大統領による、86年のリビア襲撃。カダフィが関与したとするテロに対する報復措置で、リビアに60トンの爆弾を投下し、カダフィの養女を含む101人が殺されたそうです。なお、イギリスのサッチャー政権はこの攻撃に「テロはテロを呼ぶ」として反対しましたが、結局はアメリカに屈して、米爆撃機F-111の発進基地提供の要請に応えました。この後アメリカは、リビアからアメリカ資本を引き上げさせます。
続いて、リビアは報復として88年、イギリスのスコットランド上空で米パンナム機爆破事件(ロッカビー事件)を実行(英米人の犠牲者は270人)。さらに翌89年に、フランスUTA機をアフリカ・ニジェール上空を爆破し、170人の犠牲者を出しています。なお、これらすべてについてリビア側は関与を否定し、容疑者の引き渡しを拒否。そのため、1992年、国連安全保障理事会はリビア制裁決議を採択し、さらに94年、国際司法裁判所は20年間にわたってリビア軍が占領していたアオゾウ地区に対するチャドの領有権をみとめる判決をだしました。
さらに96年8月、アメリカは、リビアが化学兵器工場を建設中だとして、リビア制裁を強化する、通称ダマト法を施行しました。この法律は、リビアおよびイランに大量に投資した国に対してアメリカが対米貿易を制限するというもので、これはEU、特にフランスが反対しています。
こんな感じで、西側諸国とリビアの関係は最悪。フセインのイラクなんかよりも、遥かに敵対関係にあったのでしょうが、ところが急速に改善に向かいます。
それは、99年にパンナム機爆破事件の容疑者を引き渡し、国連の制裁解除を得たことです。一方、実は、リビア国外ではカダフィ大佐暗殺を目指すイスラム原理主義組織のグループが活動しており、事実、暗殺未遂までやっているため、この犯人を引き渡してもらうことになりました。
この後カダフィは、どうもアラブ・イスラム世界へ関与することをやめ、アフリカ社会の一員となる道を選び始めたようです。2000年7月、西アフリカのトーゴで開かれたアフリカ統一機構(OAU)サミットは、カダフィ大佐のアフリカ世界への公式復帰祝典に近いようなものとなり、カダフィ自身も5000kmにわたってニジェール、ブルキナファソ、ガーナに立ち寄り、熱い歓迎を受けます。さらに、2002年7月には彼が提唱したヨーロッパ連合(EU)を模範とする「アフリカ連合(AU)」の会議が実行されています。
また、2001年の9・11テロでも弔意を表明し、さらに欧米の観光客がアルジェリアで誘拐された時には、カダフィ子飼いの財団が自腹を切って身代金を払うなど、欧米寄りの姿勢を見せています。また、先の2つのリビアによるテロ事件では、リビアがアメリカ・イギリス、それとフランスに賠償金を払っています。ただし、アメリカ・イギリスに対する賠償金の方が、フランスよりも多かったため、フランスが反発していますが・・・。
ともあれ、こうしてみると、今回のアメリカとリビアの急速な関係改善も、不思議なことではありませんね。
結局、国連・アメリカによる制裁の結果リビア経済は悪化し、さらにイスラム過激派からカダフィが襲撃を受けたことで、カダフィにとってイスラム過激派テロを支援する理由もなくなりました。むしろ、経済の立て直しをしないとカダフィ政権そのものが危なくなるわけで、息子をイタリア・セリエAペルージャに入団させるなど、イメージアップ作戦に出ているわけです。
一方、リビアは石油資源も豊富ですから、出来ればみんな仲良くして石油を得たいという事情もあります。まあ、もうこれからの時代は大量破壊兵器なんかを所有し、維持費はかかるし、孤立するよりもビジネスで儲けた方が遥かにお得。カダフィ大佐は、そこに気がついたというか、気がつかざるを得ない状況になったわけですが、問題は北朝鮮とイスラエル。さて、この2国の今後が注目されます。
そしてカダフィ大佐、良い時期に大量破壊兵器放棄を宣言したと思います。アメリカがイラクで苦しんでいる中、大きな援護射撃となったでしょう。なにしろ、リビアの行動は、もう一つの頭痛の種、北朝鮮にも大きな影響を与えることでしょうし、当然、この「恩返し」のために、アメリカはリビアに「見返り」を与えるでしょうしね。*それから間もなくリビアをテロ国家指定から外す措置がとられ、さらに2006年5月、リビアとアメリカの国交正常化が発表されています。