第8回 氷川雨水の「辞世の句」
突然ですが皆様は俳句、川柳、あるいは短歌などを詠まれたことはおありでしょうか ?
おそらく興味など全く無い方でも、学校の授業などで一度は詠んだ(詠まされた?) ことがあるかと思います。
そんな機会に詠んだものは大抵、教師によって公開されたり、自分で発表させられたりと、望んでもいないのに人目にさらされ、嫌な思いをするものです。しかも、少しでも凝ったものを詠んでしまうと妙に注目され、クラスメートに茶化されるなど、余計に恥ずかしい思いをするため、なるべく無難に済ませようと、無駄な労力を使ったものでした。
そんな私を含め、その方面に趣味を持たない人間が一生に詠む句や歌の数というものは多くともせいぜい十句程度でしょう。かたや、俳人や歌人と呼ばれる人間の中にはその生涯において裕に万を超える作品を詠んだ者もいると聞きます。
しかし、そんな俳人や歌人でもたった一つしか詠めない、
しかし、我々でもたった一つだけ詠める作品があります。そう、
「辞世の句」です。
自らの生涯と、遠からぬ死を同時に見つめ詠んだ、人間の一生を凝縮したその詩歌は、たとえどんなにつたない物でも、他のものとは一線を画す価値があるものと思わ
れます。ここで一つの辞世の句を紹介しましょう。
儚くも 散り逝くものは 人の夢
されど楽しき 我が人生かな
もはや言うまでも無いでしょう。これは、氷川雨水の辞世の句です。もしかしたら、 辞世の「句」というからには、俳句であり、季語と十七音の規則に、のっとらなけれ
ばならないのかもしれないけれど、そんな心の狭いことは言わず、見逃してくださ い。その辺りの定義はよく調べていないもので…。勉強不足で申し訳ない。また、
「お前、生きているじゃないか!」
というツッコミも無しです。現在、この文章を書いているところの氷川雨水も、何度か真剣に死を見つめざるを得ない状況に立たされたこともありますし、自作・他作小説やゲームに登場する氷川雨水もよく死にます(ただし、公開の予定無し)。そんなときに詠んだものです。
実はこの辞世の句、以前にもこのHP上で公開されています。多分まだどこかにあるので、興味があれば探してみて下さい。
で、今回、あえてこの辞世の句の解説はせず、次回の更新で行おうと思います。よろしければそれまでに、この辞世の句の解釈(現代語訳)をしていただきたい。詞書などの状況設定が無いため、分かりにくいかとは思いますが、暇つぶしにでもなれば、と思います。解答は掲示板にでも書き込んでください。