第14回 小説:彼方からの電話

  人は皆、運命を背負って生まれる。
 裕福な家に生まれるもの、そうでないもの。美形に生まれるもの、そうでないもの。
 ただ、それが偶然「不治の病」だった。彼にとっては紛れもなく、ただ、それだけだった。


 医者は「10歳までには覚悟してください」と親に告げた。それが過ぎれば、「15歳まで保てば奇跡でしょう」とも告げた。そして、17歳の春、奇跡は終わりを遂げる。

 最後の昏睡状態に入る前、彼は一つの我侭を言った。
 「母さん…、僕が、死んだら…、お墓に電話線を引いて欲しいんだ…。きっと…、電話、するから…。母さんが寂しく無いように、きっと電話…、するから…。」
 消え入りそうな、もしかしたらうわ言にも聞こえるその声は、しかし、母親の胸には深く鋭く、そして、鈍く突き刺さった。
 「莫迦な事言わないで…。アンタは死なない。母さんより先に死んだら、承知しないから…。」
 無理なのは知っている、莫迦なのは自分の方だということも分かる。告げずとも、自分の死期を悟れぬほど、人間はまだ退化してはいない。それでも尚、そうとしか言えないのは、彼女が「母親」だから…。
 「お願い…、だから…。」
 何を為すでもなく、何に名を遺すでもなく、ただ「生きた」…。それだけの人生だった…。


 わずかな親族だけのささやかな葬儀の後、母親は少年の最後の我侭を果たすべく、奔走する。病床の最中にあって、どんな苦痛にも泣き言一つ言わなかった我が子の最後の我侭。たとえそれがどんなに無意味に思えても、母親には捨て置くことはできなかった。そんな母親の、もはやむしろ狂気染みてすらいた願いは、やがて、それで気が済むなら、と公を動かす。少年の一周忌の少し前のことだった。


 そして、一周忌の法要後、静かになった部屋の中で、母親は、我が子を失った悲しみを反芻していた。何故、自分がもっと丈夫に生んでやれなかったのか…、何故、医学はもっと進歩していないのか…、何故…。しかし、何を責めることができるでもなく、ただ、こみ上げる悲しみを噛み締めるしかなかった。


 PRRRRR…、PRRRRR…、

 電話…。誰だろう、こんな時間に…。

 PRRRRR…、PRRRRR…、

 無機質な電子音は母親に涙を拭かせ、現実に引き戻す。
 「はい、里川です…。」
 電話の向こうからはくぐもった声が流れてきた。
 「…やぁ、母さん、久しぶり。元気だった…。」
 衝撃は脳天を突き抜けた。月並みな表現だが、そうとしか言えなかっただろう。
 この世で彼女を母と呼ぶ人間はもはやいない。そう呼ぶのはただ一人、彼方へと行ってしまった息子だけだから。
 「茂…、なの…。」
 「うん…、約束したろ?電話するって…」
 そう、確かに約束した。しかし…、にわかに信じることはできなかった。くぐもった声や途切れ途切れの音声では、それが我が子であるとは確証が持てなかったし、なにより、死者から電話が来るなど、安い怪談話でしか聞いたことが無い。
 「信じられない?じゃあ、母さん、僕が5歳の誕生日のときのこと、覚えてる?初めて、自分の家で誕生日だったよね?でも、僕がローソク消そうとしてケーキに顔、突っ込んじゃって…。でも、楽しかったよね?」

 それは、二人しか知りえない思い出。間違いない、電話の向こうにいるのは、我が子だ。
 「茂、元気…、なの…?」
 「うん…、死んじゃってるけど、元気。母さんも無理しないでね、あんまり体、強くないんだから…。」
 その後は他愛も無い会話。何を話したかは、正直、あまり覚えてはいないけれど、ただ、もう一度息子と話せて嬉しかった。そして最後に、
 「母さんは、まだこっちには来ないでね…。こっちがつらいわけじゃないけど、生きてないと、できないことも多いから…。僕には、いつでも会えるから…。また、電話するから…。」
 そう言って、電話は切れた。

 ただ、嬉しかった。既に電話は切れているのに、何か受話器から息子の温もりが伝わってくる気がして、離せなかった。
 母親は一晩中、受話器を抱き締め、そして泣いた。


 その次の年も、そのまた次の年も、命日の夜になると、電話があった。そのたびに、他愛も無い話をして、受話器を抱き締め、一晩中泣いた。
 母親はこのことを誰にも言う気にはなれなかった。話してもきっと信じてはもらえず、むしろ気が違ったかのように扱われるだけだろう。
 そして何より、他人に話してしまうのが、なぜか怖かった。

 そして10回目の命日。今日も息子から電話があると楽しみにしていたところに、一人の来客があった。年の頃は、生きていれば息子と同じくらい、しかし、息子とは逆に見るからに健康そうな青年だった。沖村と名乗ったその青年は息子の遺影に焼香した後、申し訳無さそうに口を開いた。
 「実は、お母さんに謝らなければいけないことがあるんです…。」
 そう言って彼は、古めかしいボイスチェンジャーを差し出した。
 「…これを使って、息子さんの振りをして毎年電話をかけていたのは、実は僕なんです。10年間もだましていて、どうもすいませんでした…。」
 彼が言うには、彼は息子が死ぬ2,3ヶ月前、同じ病院に事故で入院していたらしい。事故で怪我はしていても、活発で生命力にあふれた彼は息子にとってはまぶしく、生前、たった一人の親友と呼べる仲だったようだ。そのときにこのことを頼んだらしい。自分が死んだら、自分の振りをして、母親に電話をしてやってほしい、と…。

 「正直迷いました…。偽者だとバレたらどんなにお母さんを傷つけてしまうかとも思いました。でも、茂君の最後の頼みだったから…。だから、ボイスチェンジャーも使って、電波状況の悪い山奥から携帯電話を使って電話しました。でも今年、ボイスチェンジャーが壊れてしまって、もしかしたら、いい機会じゃないかと思って、今日、ここに来ました。本当に、申し訳ありませんでした…。」
 母親は、ただ泣いた。息子の親友だった、沖原の優しさに、そして何より、死に瀕してもなお、自分を案じてくれる息子の優しさに、ただ涙が止まらなかった。


 そして、その夜。

 PRRRRR…、PRRRRR…、

 いつもの年より少し遅い時間に電話が鳴った。
 「はい、里川です。」
 「もしもし…、僕だよ、母さん…。」
 「…もう、いいんです、沖村さん。あなたの気持ちはすごく嬉しいけど…」
 そこまでいって気が付いた。いくらなんでも、種明かしをして、謝罪までして、同じことを繰り返すほどお粗末なことは誰もしないだろう。そして電話の声はくぐもっても途切れてもおらず、紛れもなく10年ぶりに聞く息子の声だと。
 「ひどいよ、母さん…。10年間毎年電話したのに、いつも繋がらないじゃないか…。ずっと寂しかったのに…。」
 そう、息子と名乗る沖村からの電話の後、母親はずっと受話器を抱き締めていた。10年間、ずっと…。そして、電話ははっきりこう告げて切れた。
 「母さん…、早く会いたいよ…。」



棒