2005年2月7日 惜別!いそかぜ&さくら

 近畿・中国地方を実質制覇した翌2005年春のダイヤ改正で、1964(昭和39)年に山陰西線での運転を開始し“山陰のクィーン”として君臨した「まつかぜ」以来の伝統を守ってきた「いそかぜ」が、また、東京と長崎を結んでいた「さくら」も3月1日をもって廃止されることとなりました。

 これもどないしよかと最後まで悩んでましたが、思い切って両者へ別れを告げるべく出掛けることとしました。
(使用機種:CANON A−T、執筆 平成25年12月15日)



【 本編 】


生憎の雨模様の中、小倉駅から「さくら」との別れをしようと門司駅へ行くと
予想だにしてなかった「いそかぜ」に遭遇!回送あったんですね
キハ181-28 広セキ 列番不明 いそかぜ/鹿児島本線門司駅

関門トンネルを潜って「はやぶさ:さくら」が到着!
残念なことにヘッドマークはありませんでした
(左)EF81-409 門 3レ はやぶさ・さくら
(右) キハ181-8 広セキ 列番不明 いそかぜ/鹿児島本線門司駅

急いで最後尾へ向かうも動き出した直後!
これが最後の別れとなりました
スハネフ15-21 崎サキ 3レ さくら/鹿児島本線門司駅
 この後、急ぎ小倉駅へ向かうのですが、雨の影響で列車が遅れ気味。小倉駅での接続時間は僅かしかなかったので気が気でなりません。案の定、普通列車は2、3分遅れました。しかし、速度は一向に上がる気配がありません。イライラし、顔が引きつる中、小倉駅に到着と同時に猛ダッシュで「いそかぜ」の発車番線に!

 下り階段の手前で助役さんが発車合図の笛を鳴らすのが聞こえました。いつもは使わないエスカレーターを駆け下りながら「待って!乗ります!」と大声を上げた瞬間。雨でぬれたエスカレーターの段で滑ってしまい、そのままスライディング状態で階下へ!!!

 大声が幸いしたのか、ドドドドドッという滑走音が幸いしたのか、助役さんの御計らいで一旦は閉じたドアが開きました。助役さんと車掌さんに一礼し謝意を示しながら、息も絶え絶えに車内の人となりました。感謝です。

 しかし、滑走の代償を払うこととなり、左足だったと記憶してますが、酷い裂傷を受けてしまい、関門トンネル内ではズキズキと疼く足の苦痛に顔を歪める結果となってしまいました。でも、自業自得です・・・。返す返すも助役さんと車掌さんには感謝です。


海側は満席で山側しか空いてませんでした(涙)
終焉が近いこともあり自由席も含めてほぼ満席


前回は真っ黄色だったヘッドマークの撮影もリベンジできました
キハ181-28(上) 8(下) 広セキ 30D いそかぜ/山陰本線益田駅

岡見貨物の牽引機だったんでしょうか?お昼寝中です
DD51-852 厚/山陰本線益田駅

益田駅からは高速化のなった区間を一気に東へ向かいます

187系のぶっとばす様には恐怖すら覚えました
窓はベコベコするわで、うぅ〜ん慄然!(今は慣れましたけど)
キハ187-1003 所属不明 2020D スーパーまつかぜ10号/山陰本線鳥取駅

半年前にお世話になった列車です
でも、エエ加減「スーパー」っての止めへんのか?安物っぽいで(笑)
HOT7014 2057D スーパーはくと7号/山陰本線鳥取駅

ここからは普通列車で繋ぎます
キハ47-41 米トウ 538D/山陰本線鳥取駅

ペアを組んでいるんは元客車ではありませんか!
キハ33-1001 米トウ 538D/山陰本線鳥取駅

ついに最終列車です

何と乗継は1分!超短時間の間に原色を一枚!
キハ181-12 京キト 6D はまかぜ6号/山陰本線浜坂駅

折角の有効期間を活用しなかった旅でした(笑)
 この旅の2週間余り後、23日夕刻、会社に叔母からの電話が入りました。用件は、@母が急に倒れて病院にいるが意識がないこと、A主治医が親族(この場合、血の濃さが重要で息子がいる場合、姉妹では駄目らしい)に緊急に話がしたいから直ぐに来て貰いたいことの2点でした。

 朝一番の新幹線で相模原に向かうといったんですが、急を要するので1分でも早く来いとの仰せ。仕方なく上司に事情を話し、部下に仕事の指示をしつつ出来る事は片付け速攻で帰宅。家族へ事情説明、身支度を整え、明石駅のみどりの窓口へ。なんとか時間的に可能な東京行きはこれしかなく、図らずも初乗車&お別れ乗車となりました。


 母は悪性リンパ腫とのことで3日後に敢え無くこの世を去りました。その1カ月前にかねてから行きたがってたトルコへも行き、その数か月前には憧れのロシア旅行にも行ってたので、ある意味やりたいことはやり終えてたのかも知れません。それだけは良かったと思っています。

 神道の世界では、仏教で云うところの初七日が十日祭、四十九日が五十日祭にあたりますが、ひと月のけじめに三十日祭というのをやります。それに合わせて、娘二人と共に兄の自宅へ向かうとの建前で、家内に内緒で二人をディズニーランドとサンリオピューロランドへ連れて行きました。

 そこには当然、わたくしなりの仕掛けがセットしてあります。


先ずは何故かサンダーバード

次いで乗ったのが「北陸」です
 さて、何故「北陸」なんでしょう?それは前年のわたくしの誕生日。そう「中越地震」に遡ります。その地震で新潟を中心に鉄道路線が甚大な被害を受けました。その後、関係者の皆さんに依る必死の御努力の結果、長期間に亘って運休となっていた「北陸」「能登」が運行を再開した日がこの日だったのです。

 列車内では笑顔が絶えませんでした。皆さんの喜びひとしおの感じがひしひしと伝わってきましたし、乗務員の方々も復旧への確かな手応えを感じられての笑顔だったと思います。このことを思い出す度に、今の福島県浜通りのことに想いを馳せずには居られません。


車内では記念品が配られました

少しですが、運転再開時の光景などを・・・。云わずと知れた金沢駅での出発前の光景です
2005.03.25 (左)スハネフ14-28 東オク 3002レ 北陸
(右)クハ489-2 金サワ 602M 能登/北陸本線金沢駅

今度は「能登」をメインに(尚、先頭側は大失敗のピンボケ!)
2005.03.25 (左)スハネフ14-28 東オク 3002レ 北陸
(右)クハ489-2 金サワ 602M 能登/北陸本線金沢駅

上野駅に到着
2005.03.26 EF64-1052 長岡 3012レ 北陸/東北本線上野駅

いつになっても上野駅でのスハネフには縁がないようです
2005.03.26 EF64-1052 長岡 3012レ 北陸/東北本線上野駅

 個人的な余談が長くなりましたが、母の死がわたくしの心の中に大きな変化をもたらしたのは紛れもない事実です。自分自身の内面に対する“合理化”との批判もあろうかと思いますが、心の底からこんな風に思いました。
『人生死んだら終わり。生きてる間に自分のしたい事を思い切りせな後悔する。もう、後悔(親不孝を取り返し切れなかった事など)したない。』
 これをきっかけに“鉄の病”が暴発します(笑)。そのお話はこれからということで・・・。

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