2011年6月2日〜13日 訃報
5年を経とうとしている現在でも忘れもしない、平成23年6月2日(木)17時前のこと。概ね業務が片付いたなというタイミングで私の机の電話が鳴りました。相手は電話交換員。『こちらに●●台に住んでらっしゃる方おられます?』
私は直ぐに私宛の電話やなとピンと来ました。何せ●●台は私の住む隣の地区でしたから。電話の主は家内が縫い子として内職を得ていた社長からでした。曰く、
『夕方に納品して貰った後、みんなでお茶してたら奧さんが急に倒れられて・・・』
「それで意識有りますか?口から泡噴いたりしてます?」
『泡は無くって、意識がないから急ぎ救急車呼んで・・・。今、救急隊員の人が心臓マッサージと人工呼吸してくれてるんやけど、意識は無いまま・・・。』
「判りました。直ぐに帰ります。」
『西神戸医療センターに救急搬送するそうです・・・。』
「ありがとうございます。」
この時点で「助からへんな」と思いました。状況から察するに脳溢血か心臓麻痺と判断出来ましたし、助かっても寝たきりやなと。不思議な位冷静に状況分析も出来ました。
何れにしても病院へ向かわねばなりませんので、上司と部下に事情を説明。一瞬にして空気の凍り付いた部屋を出て、3人の子供達に緊急メールを打ちながら地下鉄へ。途中、救急隊員からの架電あるも、電波状態のせいで上手く会話が成立しません。そうしたもどかしい時間帯を過ごしつつ西神中央駅に着き、西神戸医療センターの救急外来に入りました。
ベッドには変わり果てた家内が横たわっていました。顔の異様なむくみが重篤さを知らしめています。子供達が揃って暫くして、主治医の方から状況説明がありました。結果は、くも膜下出血で、その度合いは即死寸前の極めて重篤な状態。3日〜一週間が生死の山場であるが、出血の状況から意識が戻ったとしても普通の生活を送ることは極めて困難なこと。その他、色々と説明を受けました。受けた説明内容について、子供達にも正確に伝えた後、「お母さんは助からへんと思う。それから今日から家事については皆で役割分担せんなんから宜しく」と伝え、それぞれに割り振りました。
それからは、ICUで完全看護なんで昼間は出社しつつ、夕方から夜にかけて家内の横に居る日々。膀胱から繋がるチューブを流れてくる尿の色、濃さ、粘度を眺めては容態が悪くなっている現実を理解。一方で子供達や親戚の前では冷静に、普通に振る舞いつつも、風呂で頭を洗う際に思いっ切り泣く日が続きました。
そして入院10日目の6月12日(日)、伯父の葬儀に出席している最中、病院から容態が急変したとの連絡が入ったので、従兄の車で病院へ急行。義姉や子供達にも参集を掛けました。家内は全員が揃うまで何とか持ちこたえたものの、脈拍や心拍、血圧の値を見れば、両親を見送った経験から死期の近いことは直ぐに理解出来ました。
そして、日付が変わった0時45分、窒息したかの様に顔に血管が浮き出たと思ったら、それが息を引き取る瞬間だったのでした。家族4人と姉に見守られて妻は逝きました。平成23年6月13日、妻多惠子逝去。享年47歳。何も起こらなければ、4日後に結婚21周年を迎えた筈でした。