96式艦上戦闘機の後継機種として1937年に海軍より開発が要求される。高度な航空力学と独自設計理論により、試作当初は非常にバランスの悪い機体であった。
しかし、量産が始まる頃には各種問題は解決されている。もともと海軍から非常に厳しい条件を突きつけられた中での開発であった為、 そもそもの開発はなかなかに困難を極めた。
そもそも発動機自体の自国開発が間に合わず、結局は外国製のエンジンのライセンスした物を流用している。
1000馬力級のエンジンでの運動性能を向上させる為に、 末期的な軽量化策が取られ、防弾面や対火災性能は致命的な状態であったが、
これは元々、日本軍パイロットの中に最後まで蔓延し続けた軽戦思想が出た結果であるから、 仮に高性能エンジンをこの時期に調達できたとしても、防御面における性能は速度性能の向上以外においては大差はなかったであろう。
従って、本クラスでの速度性能と各種のバランスは当時世界最良であり、 海軍を充分に満足させるカタログデータではあったから、これは一つの完成形といえるのかもしれない。
初量産型の11型は元々陸上訓練用であったため、艦載予定はされておらず、艦載機の持つ機構は基本的に存在しない。訓練用ではあったが、実戦に早くから参加し、日中戦争では中国軍のロシア製戦闘機I−15等を相手に、
充分な戦績を残した。
続く21型は11型に艦載機構を施した機体であり、 これが零式艦上戦闘機としては事実上最初の機体と呼べる物であろう。 21型は真珠湾攻撃に参加して以来、各方面で各国の戦闘機と渡り合い、当時のパイロット練度の高さも手伝って、性能以上の戦績を作り上げ、所謂、ゼロ戦の伝説を作り上げた。
1942年に至って生産された32型は21型の翼端をカットした物で、従来の丸みのある先端ではなく、鋭角的な形を持っていた。これは艦載積載能力の向上と、従来の折り畳み翼機構の廃止による資源節約、空気抵抗の軽減による速度向上を目的とし、更に、主翼展開時間のロスが無くなる事から発艦時間の節約が見込まれた。32型は軍部念願の大馬力エンジンを搭載した型であり、さらなる速度性能の向上が期待されたが、翼端カットは日本軍機の持ち味である航続距離を奪い、更に期待される程の速度性能も持てず、早々に生産はうち切られた。
32型の翼端を従来の形に戻し、今少し航続距離を伸ばしたのが、続く22型であり、これは零戦の中でもっともバランスの良いとされている機体である。但し、22型が登場した頃には、戦局は大いに悪化し、相手とする連合軍戦闘機は2000馬力級が続々と登場し、かつての伝説の名機は苦戦を強いられる事になる。
後継機の開発が戦局の悪化と共に大幅に遅れが生じる中で、零戦の性能を僅かでも向上させる試みがなされ、開発されたのが52型である。翼長を32型とほぼ同じにし、シルエット的には22型と同じ丸みを持つ翼端を採用。液冷式排気管を採用し、速度は従来より30q/H向上する事に成功はしたが、この頃には連合軍において600後半700前半の速度を持つ戦闘機が当たり前の様に登場し、苦戦状態はくつがえり様はなかった。
また、著しい資源の不足から本来の性能すら維持できない機体が多く、かつての威光は完全に失われていた。
ゼロ戦の性能は実は高い物ではない。
低くはないだろうが、だからと言って伝説になる様な機体ではなかった。伝説になる要素を作ったのはゼロ戦を操ったパイロット達であり、彼らの能力の高さが零戦の性能を大幅に強化したのだ。
従って、ミッドウェー海戦、珊瑚海海戦、等で歴戦の優秀なパイロットが失われた後には、零戦はただの凡庸な戦闘機でしかなかったのは当然である。仮に、後継機種である烈風がそのような時期に完成できたとしても、期待される戦果を挙げられたかは疑問が残る。