真珠湾攻撃時、パールハーバーの空を守っていたのが、このP-40である。カーチス社は当時アメリカを代表する航空機メインブランドの一つで、欧州で名高きシュナイダーカップにも参加し優勝もしている。そうしたエアレースで培われた実績を惜しみなく投入し、数多くの名機を生み出している。前作のP-36は期待以上に成功した戦闘機として知られているが、P-40はそのP-36の機体が装備していた空冷エンジンではなく、液冷エンジンへの換装を実施する為に再設計された機体である。
開発コードはXP-40と呼ばれている。
これは空冷エンジンが持つ機構が空気抵抗軽減阻害の要素として考えられたため実施された。 従って、換装後の機体は前作よりも速度や上昇能力、機敏性に富んだ戦闘機が完成すると期待されていた。が、完成させてみると、速度性能はともかく、大柄な機体が災いし、機敏性や小回りは予想を大いに下回った。それでも、カタログデータの上では各数値の上昇は認められた為、P-36に代わる機体としてP-40の量産がスタートした。
1940年5月の事である。
最初から期待されていなかった為、機密にもならず、先行量産型のP-40Aから既にドイツと戦闘状態にあるフランスへの輸出が決まっていた。しかし、完成を見るまでもなく、フランスは降伏したために、輸出予定だった320機以上に上る機体は、バトル・オブ・ブリテン等で飛行機需要が急速に高まったイギリスに引き取られていった。この機体はイギリスでは『トマホーク1』と呼ばれた。
米陸軍への実戦配備は1939年の二期生産型のP-40Bからとなるが (真珠湾攻撃時同基地に配備されていたのもB型)、貧弱な武装の見直しがはかられ、P-4OCが本格的な配備となった。このC型は英国にも供与されている。
1941年に入ると諸事情に伴い、より本格的な実戦型戦闘機としての改修が行われた。 これがP-40Dと呼ばれる物で、より実戦的な戦闘機であった。
(D型からイギリスではキティホークと呼ばれている)
日米開戦に際して多くが太平洋方面に配備され、 日本陸軍戦闘機機の隼や海軍戦闘機の零戦と渡り合う事になったが、 大味な性能が災いし、苦戦を強いられた。欧州でも高性能なドイツ機の前にはやはり歯がたたかなった。それでも、余裕のある爆載能力と生産性の高さを生かして大量投入され、
戦闘機としてではなく、戦闘爆撃機として活躍の場を見いだす事になる。
まったく期待されなかった戦闘機ではあったが、 その割には非常に活躍した戦闘機であった。度重なる改修(さらに1944年のP-40Nの生産終了までに12の型と数多くの派生型が作られている)と共に連合国参加国の多くに供与され、やはりそれなりの活躍を見せている。
※米国でP-40がウォーホークと呼ばれるのはF型からである
雑魚の見本。
木っ端の鑑。
そういう表現がぴったりくる。
そもそも不幸な期待だった。父親があまりに優秀だったため、周囲の期待を否が応でも受ける息子の様なモノだ。
父親は優秀な戦闘機だったが、息子も優秀な支援機だった。 ある意味では父親以上に実戦向きな息子ではなかろうか?戦闘機は敵の飛行機を相手にする為の存在であるが、支援機はまさに様々な局面で使われる。換言すると、二次大戦は、あらゆる作戦が支援機なしではあり得なかった。P-40は正にその任務に打って付けだった。モノは使い様、という言葉の具現だろう。
ところで、宮崎駿の映画『紅の豚』にもカーチスは出演している。 カーチスR3Cと呼ばれるシリーズの一つで、 第7回シュナイダーカップ第三位を契機に、
第8回と第9回は優勝している。この時、カーチスで大空を駆けたレーサーは『ジェームズ・ドゥーリトル』と言う名で、 後に太平洋戦争に参加し、空母から自ら駆る機体を含め16機の陸上爆撃機を発艦させる神業をやってのけた後、
初の日本本土爆撃を敢行した(これもある意味神業だった)無茶男である。