1936年から計画が始まり、1940−1942年で5隻が完成した第二次大戦当時の英国最新鋭戦艦と銘打たれている。ロンドン軍縮会議の枠内で設計されている為に、主砲内径は36cm、乾燥排水量は35000の枠内で建造されている為に、最終的にロンドン軍縮会議を無視したドイツや日本、アメリカの同年代建造戦艦に比べると明らかに大きく見劣りする物となった。
当初計画では主砲は4連装36cm砲塔3基とする方針であったが、重量増加を少しでも軽減するために、4連装36p砲塔を2基、同2連装砲塔を1基として、二本分の砲重量を排除している。
基本的に副砲は存在しないが、代用砲として、2連装13.3cm両用砲塔を左右に4基、計8基配置して 武装の不足を補いつつ、武装による重量増加を押さえ込んだ。更に両用砲の補強として8連装40mm機関砲装置を前後2基ずつ配置しているが、これら機関砲や機関銃の類は各艦により個差があり、また年代により常時、配置数が変更されている。
主機関は蒸気タービンを採用。同型艦最大のものでも125000hpを越える物は無かったが、重量軽減と比較的コンパクトなサイズが功を奏して、30knに届く最大速力を得ることが出来た。
しかし、コンパクトにまとめた船体はネルソンと同じ平面甲板型であり、これは凌波性に大きな悪影響を与えた。
太平洋戦争の初戦を語る上で外す事の出来ない海戦がある。それがマレー沖海戦だ。 これは航空機で生きた戦艦を叩く事が出来る事をまじまじと証明した事件だった。
その叩かれた戦艦が英国海軍の虎の子たるプリンス・オブ・ウェールズと、その護衛に随行した戦艦レパルスであった。実際問題として、日本側の作戦進行は決してスムーズだった訳ではなく、英国の側でも叩かれた本当の所の原因は、凌波性不良という問題を抱えた艦船性能とヨーロッパ戦線に遠因が無い訳でもないのだが、しかしながら、航空機で列強国家が誇る最新鋭戦艦が、あっさりと沈むという事は非常にショッキングな事であった。
プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の報を受けた時の英国宰相チャーチルの茫然自失ぶりは当人の語る所であるが、衝撃は英国宰相だけではなく、アメリカ軍部にも強い構想転換を迫られる物であったし、
作戦を成功させた日本海軍は繰り返された演習実験の結論を、実戦によって更に確固たる物としたのである。
そうした事から真珠湾の戦艦群への攻撃もさる事ながら、 このプリンス・オブ・ウェールズの撃沈は戦艦の時代が終焉を迎えた事を象徴するものであった。
さて、日本側から見れば完全にやられ役のポストに押し込められたプリンス・オブ・ウェールズではあるが、今ひとつ逸話がある。
マレー海戦が収束したのち、日本海軍の飛行艇が戦艦2隻の戦没した海域に花束を投げ込んだ。軍事ロマヒズムの塊り様な話ではあるが、これには多少の事情もあった。
日本海軍のモデルはイギリス海軍それ自体であり、伝統的にイギリス留学が行われていた。 また、日本海軍の装備する武装の多くが英国製をモデルとする物であり、使用している艦すら英国建造の物も珍しくはなかった。日英同盟の件を含め、そのような事情から、イギリスをモデルとした日本海軍の中には親英国感情は強く、同輩の意識が確かに存在していた。
他方、一番艦キングジョージX世は、やられ役からはほど遠く、ヨーロッパではドイツ艦隊を葬り、太平洋では日立市等への艦砲射撃で、多大な戦果を挙げている。